~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
二 人 の ヒ ロ イ ン
 
2018/07/29月
建 礼 門 院 (五)

『平家』によればその出家は文治元年五月一日のことで、長楽寺の阿証房印誓が戎師をつとめたという。この時の 布施 ふせ として、建礼門院は亡き安徳帝の直衣を印誓に施した。これは安徳帝が最後まで身に着けていたもので、移り香が身にしみている懐かしい形見だった。これ一つは絶対に手放すまいとして、ここまで持って来たのであったが、今は布施としてほどこすものも持たず、またかの安徳帝のぼだいふせを弔うためには、これが何よりと思って涙ながら差出したのである。今京都の東山に長楽寺という寺があり、安徳帝の形見という衣を伝えているようである。
かくして建礼門院は仏道に入ったものの、亡くなった帝や、実母の二位尼のことが忘れられず、自分だけがなぜ命を長らえ、このような辛い思いをしなけらばならないかと思うと涙がとめどなく流れるのであった。
おつきの女房たちも、二位尼や通盛の妻の小宰相のように強い意志をもって自殺することも出来なかった人々が多く、それぞれに武士に捕らわれ都に帰り、出家したりして、わび住居をしている状態だったが、そのうち大地震が起こって、建礼門院の住む吉田のわび住居は、ますます住みにくくなっていった。そうなっても、わざわざ援助の手をさしのべてくれる人もいないという心細い状態だったが、それでも冷泉大納言隆房の北の方、七条修理大夫信隆の北の方 ── いずれも建礼門院の妹 ── がそっと訪ねて来てくれることもあった。そんな時はまたかえって、
── 昔は、あの人たちに世話になって生きようとは思いもしなかったのに・・・。
と涙を浮かべてしまう建礼門院なのであった。
ともあれ、彼女にとっては、都に近い吉田のあたりは、やはり住みにくい所だった。

この御すまゐも都猶ちかく、玉ばこの道ゆき人の人目もしげくて、露の御命風をまたん程は、うき事きかぬふかき山の奥のおくへもいりなばやとはおぼしけれども、さるべきたよりもましまさず。ある女房のまい(ツ)て申けるは、「大原山のおく、寂光院じゃくくわういんまうすところこそしずかにさぶらへ」と申ければ、「山里は物さびしき事こそあるなれども、世のうきよりはすみよかんなる物を」とて、おぼしめしたたせ給ひけり。
(此の御住居も都に近く、道行く人の人目も多くて、露の命を絶えるのを待っているような ── つまり死を待つばかりの身としては、世の中の憂き事を見聞きしない山奥へ入ってしまいたいと思っておられるのだが、そういうつて・・もなくおいでになったところ、ある女房が来て「大原山の奥に寂光院という所があり、そそこが静かでございます」と言ったので「山里は寂しいけれども、騒がしい世間に触れて辛い思いをするよりは、ずっと住みいいから」とそこへ移る決心をした)
建礼門院が寂光院へ入ったのは九月の末である。日の暮れるのも早く、夕を告げる野の寺の入相の鐘の音も寂しく、折からのしぐれ、風のそよぎ、鹿の音、露の深さ、どれをとっても心細さは限りなく、西国に逃れ、島づたい、浦づたいにさすらっていったときも、これほどではなかった、と今さらのように昔を思い出したりした。

さて、いよいよ寂光院に到着し、彼女はここをついのすみかにしようと決心する。
岩にこけむしてさびたる所なりければ、すままほしうぞおぼしめす。露結ぶ庭の萩原はぎはら霜がれて、まがきの菊のかれがれにうつろふ色を御らんじても、御身の上とやおぼしけん。仏の御前にまいらせ給ひて、「天子聖霊成等正覚、頓証菩提ぼだい」といのり申させ給ふにつけても、先帝の御面影ひしと御身にそひて、いかならん世にかおぼしめしわすれさせ給ふべき。
(岩に苔むしてものさびた所であるので、ここに住まおうとお考えになった。露しとどの庭の萩もしだいに霜枯れ、垣根の菊の色があせてゆくにつけても、わが身の上のよな気がなされたことであろう。仏前で「天子聖霊成等正覚、頓証菩提」(天子の霊が正しい悟りを開かれ、すみやかに極楽に住して仏果を得られるように)とお祈りなさるにつけても、安徳帝の面影が、身近に浮かんできて、とうてい忘れることは出来そうにもなかった)
その寂しさに堪えて、門院は念仏を続けた。と、思いがけなくも、その翌年に、後白河法皇がここに訪ねて来る。これが有名な「大原御幸ごこう」のくだりである。
かかりし程に、文治二年の春のころ、法皇、建礼門院大原の閑居の御すまゐ、御覧ぜまほしうおぼしめされけれども、きさらぎやよひの程は風はげしく、余寒もいまだつくせず。峯の白雪消えやらで、谷のつららもうちとけず。春すぎ夏きた(ツ)て北まつりも過しかば、法皇夜をこめて大原の奥へぞ御幸なる。
法皇はいつか建礼門院の住居を見たいと思っていたのだが、二、三月のころはまだ風もはげしく、余寒もさりやらぬところであったので、それすごしてから、賀茂の祭りも終わってから、法皇はいよいよ大原行きを決行する。
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