~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
二 人 の ヒ ロ イ ン
 
2018/07/27
建 礼 門 院 (四)
もちろん、この都落ちには建礼門院徳子も従わざるを得ない。
おなじき七月廿四日のさ夜ふけがたに、さきの内大臣宗盛公、建礼門院のわたらせ給ふ六波羅殿へまい(ツ)て申されけるは、「この世の中のあり様、さりともと存候つるに、いまはかうにこそ候めれ。ただ都のうちでいかにもならんと、人々はまうしあはれ候へども、まのあたりうき目を見せまいらせんも口惜くちおしく候へば、院をも内をもとりたてまつりて、西国の方へ御幸行幸をもなしまいらせてみばやとこそ思ひな(ツ)て候へ」と申されければ、女院「今はただともかうも、そこのはからいにてあらんずらめ」とて、御衣の御袂おんたもとにあまる御涙せきあへさえ給はず。大臣おほい殿も直衣なうしの袖しぼるばかりにみえられけり。
(宗盛は六波羅にいる建礼門院の所へやって来ると、
「世の中が、まさかこれほどになろうとは思いませんでしたが、只今の状態は、かくかくでございます。都の中で決死の覚悟で戦おうという話もありますが、眼前で戦いの様をお目にかけるのも心が痛みますので、院も天皇もお連れして、西国へ御幸、行幸して頂こうと決心いたしました」
と言うと、建礼門院は、
「今はもうどうなろうと、あなたのお計いどおりにいたしましょう」
と言いながら、袂に涙をあふれさせ、宗盛も直衣の袖をしぼるばかりであった)
運命に従順な姿はいかにもあわれだが、ヒロインとしては影が薄い。まだ、このあたりでは、彼女はヒロインとしては意識をもって描かれているとは言い難い。
しかもこの時、平家は後白河法皇に逃げられ、やむなく、安徳帝だけを連れて西国へ落ちて行く。この悲運の幼帝を抱いて同じ輿に乗ったのは建礼門院その人であった。
その後、平家も一度は勢力を盛り返して福原まで戻って来るが、ここで木曾義仲を降した鎌倉勢と戦って大敗し、四国の屋島に逃れる。が、まもなくそこも源義経に攻められ海上に逃れ、一ヶ月後に壇の浦に追い詰められて全滅する。
この時清盛の妻、二位尼、時子が安徳帝を抱いて入水した話は後で触れるとして、建礼門院にかかわる記事だけを追ってみよう。と、ここでも彼女に関する記事は実に短い。
女院はこの御有様を御らんじて、御やき石、御すずり、左右の御懐に入れて、海へいらせ給ひたりけるを、渡辺党に源五馬允むつる、たれとはしりたてまつらねども、御ぐしを熊手にかけひきあげ奉る。女房達「あなあさまし、あはれ女院にてわたらせたまふぞ」と声々口々の申されけば、判官にまうして、いそぎ御所の御船へわたしたてまつる。
安徳帝の入水には「先帝身投」という一章を割いている『平家』は、建礼門院については「能登殿最期」のはじめの数行しかついやしていない。ここに到っても、まだ彼女はヒロインとしての扱いを受けているとは思えない。
ところが助けられてからの後の彼女は、その後の『平家物語』の最終部分では、物語を締めくくる人物として俄然重みを増す。源軍に捕らわれて都入りした建礼門院はやがて出家して、吉田のあたりに住んでいた。そこは中納言法印慶恵という奈良法師が住んでいた所で、家も庭も荒れ放題の住みかであった。何不自由ない宮中生活をしていた建礼門院の心の中はどんなに寂しかったことか、と『平家物語』は今までと打って変わって、こまやかに彼女の心の中まで描こうとする。
魚のくが(陸)にあがれるごとく、鳥の巣をはなれたるがごとし。さるままには、うかりしなみの上、船の中の御すまゐも、今は恋しうぞおぼしめす。
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