ともあれ徳子の幸運はまだ続く。一ヶ月後には、この皇子は東宮(皇太子)と定められ、二年後の治承四年には、父高倉帝のゆすりを受け、数え年三歳で皇位につく。これは、後白河法皇と清盛との間がとかく円滑を欠き、後白河が鳥羽離宮に幽閉されてしまったので、その間に立って苦慮した高倉が打出した打開策だった。徳子の生んだ皇子が皇位につき、清盛の外祖父としての地位が確立すれば、その気持ちもやわらぐだろうと思っての事だった。さらに高倉上皇は、平家の尊崇する厳島への参詣の旅を思い立った。これも清盛の意を迎えるがためである。ふつう天皇が位を譲った後、最初の行幸には、石清水八幡宮とか賀茂神社、春日神社が選ばれるのに、全く異例の事だった。これについては特に比叡山あたりの反対は激しかったが、上皇は押し切って厳島へ向かった。
が、こうした苦労がたたってか、高倉上皇はその翌年二十一歳の若さでこの世を去る。そしてこの時を境にして、徳子の運は次第にかたむき始めるのである。
この時、『平家物語』には書かれていない一挿話がある。高倉上皇の命が旦夕に迫ったころ、平清盛は、ひそかに、上皇の死後、徳子を後白河法皇の後宮に入れることを計画する。
息子の妻を、その舅へ?──。今の常識では考えられないことだが、清盛は案外平気で、いや大真面目にそれを考えていたらしい。そのころ右大臣だった九条兼実の日記『玉葉』にその記事がある。 |
若もシ大事出来しゅつたいスレバ、中宮ヲ法皇ノ宮ニ納いルベキノ由、アル人和議ス。禅門(清盛)及ビ二品(清盛の妻)承諾ノ気色アリ。(原文は漢文) |
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ところが中宮はこれを承諾しなかった。 |
而しこうシテ中宮、此旨このむねヲ聞キ、枉まゲテ出家ノ事ヲ仰セラルルコト已すでニ切ナリ。ヨッテ、忽チ其その儀ヲ変ジ、至(巫の誤記か)女腹ノ女子ヲ以テコレニ替ヘルベシト云々 |
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中宮は絶対にいやだ、と頑張った。もし帝が亡くなったら、私は出家したい ── 強くそう主張されたので、にわかにこのことをとりやめ、かわりに清盛が厳島の巫女みこに生ませた娘を入内させることにした、と言うのである。
ここで始めて徳子は一つの意志を持った女性として登場する。単に父の言いなりになるだけでない女性の姿を、私たちはここに垣間見ることが出来るのだが、残念ながらこの事は『平家物語』には書かれていない。
ついでに言うと、この巫女の生んだ娘は、この噂通りに入内する。このことは『平家』の「廻文めぐらしぶみ」の冒頭に出て来る。 |
入道相国しやうこく、かやうにいたくなさけなうふるまひをかれし事を、さすがおそろしとやおもはれけん。法皇なぐさめまいらせんとて、安芸の厳島の内侍が腹の御むすめ、生年十八になり給ふが、ゆうに花やかにをはしけるを、法皇へまいらせらる。 |
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もっとも『玉葉』によれば、法皇自身はこのことにあまり乗り気ではなかったらしい。当時後白河の側近には寵姫丹後局があり、ほかの女性のことなど関心がなかったのではないかと思う。が、清盛はまだ、この時点では後白河と局の仲に気づいていなかったようだ。
中宮徳子が、建礼門院の称号を得たのは、高倉の崩じた年の十一月、この院号を贈られると、ここに院司がおかれ、経済的にも身分的にも、上皇に準じた待遇が得られる。
が、院号を得た後の徳子を待ち受けていたのは予想だにもしなかった悲運の連続だった。まず高倉帝の後を追うように清盛が死んだ。すでにこれ以前に、都では以仁もちひと王をかついだ源頼政の挙兵があり、どうやらこれは片付けたものの、伊豆の源頼朝、木曾の源義仲が相次いで挙兵している。清盛はこれらの報に心を残しながら死んでゆくが、その予感にたがわず、木曾勢は平家軍を打ち破り、寿永二年には、早くも都に迫って来た。到底その勢いに抗し得ないと知った平家方は、安徳帝を奉じて西国へ逃れる。西国はもともと平家の勢力の強い所なので、そこで勢力を挽回して都を回復しようとしたのである。 |
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