~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
二 人 の ヒ ロ イ ン
 
2018/07/24
建 礼 門 院 (二)
徳子が入内したのは十六歳、相手の高倉帝はまだ十歳の少年にすぎなかった。これでは早急な皇子誕生は望むべくもない。以来六年間、平家一族は、徳子の懐妊を待ちつづけていたに違いない。
こうした事情を思えば、「小督」の中に書かれているような、建礼門院が、高倉帝を慰めるために小督をつかわしたというようなことはあり得なかったはずである。当時の徳子は、何としても第一番に皇子を生まねばならない立場にあった。小督を高倉にすすめる余裕などは考えられない。『平家』の作者は「小督」の巻で、中宮徳子をいい子にしようとし、実に不自然な書き方をしている。こうした書き方では、決して徳子の人間を的確に描いた、ということは出来ない。
さて、いよいよ徳子のお産が近づく。が、ここでも、『平家』の作者は、その時の周囲の状況を書くのに忙しく、徳子の内面にまでは立ち入っていない。
治承二年十一月十二日、徳子の陣痛が始まった。産所にあてられている六波羅の池殿(清盛の弟、頼盛の館)には関白はじめ身分の高い公卿たちがつめかけて来た。こういう時に挨拶に来ないと、後の出世にかかわりがあるからだ。
そのうち後白河法皇までやって来た。一方有名な寺院では、安産の祈祷きとうが行われている。もちろん平家一門の人々も、息をつめて、なりゆきを見守っていた。
かかりしかども、中宮はひまなくしきらせ給ふばかりにて、御産もとみになりやらず。入道相国しょうこく・二位殿、胸に手ををいて、「こはいかにせん、いかにせむ」とぞあきれ給ふ。人の物申けれ共、ただ「ともかうも能様よきやうに、よきやうに」とぞのたまひける。
「さりともいくさの陣ならば、是程浄海は臆せじ物を」とぞ、後には仰られける。
(こんなふうにお祈りを続けたけれども、中宮は陣痛はしきりだが、一向に子供の生まれる様子がない。清盛も、その妻の二位殿も、胸に手をおいて、「どうしようか」と ただおろおろするばかり、人が何か言っても、全く上の空で「なんでもいい、ともかくいいように、いいように」と言うばかりだった。後になって清盛は「あれが戦の陣ならば、これほど俺も臆しなかったのだがな」と言われた)
このあたりは、何も手につかない両親の姿をたくみに描いている。僧侶たちも力を尽くして祈祷を続けたが、この時、後白河法皇も、みずから祈祷の役を買って出た。ちょうど法皇は今熊野へ参拝するための精進中だったが、みずから声を張り上げて、千手経を読まれた。こういう祈祷の座には、中宮の体にとりついている悪霊が乗り移る「よりまし」が坐っている。これが、「自分は某の霊である」というようなことを口走って暴れてみせるのだが、法皇みずから読経するという前代未聞の事に、さすがに踊り狂っていたよりましも、おとなしくなった。法皇は言った。
いかなる物気もののけなり共、このおい法師がかくて候はんには、いかでかちかづき奉るべき。就中なかんずくにいまあらはるる処の怨霊共は、みなわが朝恩によ(ツ)て人とな(ツ)し物共ぞかし。たとひ報謝の心をこそ存ぜずとも、あに障碍しやうげをなすべきや。すみやかにまかり退き候へ。
(いかなる物の怪であろうとも、この私がそばにいるのに近づけようか。なかでも今あらわれた怨霊どもは、もとはといえば、みな我の恩をこうむって出世して、ひとかどの人間となった者だ。それに報じる心がないにしても、よもや、たたりをすべき筋合いではない。早く退散せよ)
高らかに千手経の経文を口づさんで水晶の数珠じゅずを押しもむと、中宮徳子は、これに力づけられたのか、男子を安産した。清盛はあまりの嬉しさに声を上げて泣き伏すしまつであった。
この時、清盛は法皇に砂金一千両、富士の裾野で出来た綿二千両を献上した。が、いくら嬉しさのあまりとはいえ、こういうことはよくない、と人々はうわさしあった。単に前例がないからという意味か、あるいは、かりにも法皇であるその人に、お布施ふせのような形で物を贈るのが適当でないという意味であろうか。
しかもこの時、そのほかにもちょっと変わったことがあった。そのころ、お后の出産のとき、御殿の棟から、こしき(御飯をむす素焼の瓶)を転がしおとす習慣があった。それも皇子誕生の時には南へ、皇女のときは北へおとすきまりだったのに、その時は、間違えて北に落とし、あわててもう一度やりなおした、これものちに安徳天皇となる皇子の不幸な将来を暗示するようなエピソードである。
が、このお産のあたりにも、中宮徳子の人柄はあまり出て来ない。これで見るかぎり、むしろ全くのロボットで、父の威光によって高倉に入内し、やがて子を産んだにすぎない。という感じである。
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