~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
二 人 の ヒ ロ イ ン
 
2018/07/24
建 礼 門 院 (一)
『平家物語』の中の女性たちの中で、まずヒロインの名で呼べるのは建礼門院徳子であろう。平清盛の娘として生まれ、高倉天皇のお后となり、安徳天皇を生み、女としての最高の栄誉を与えられながら、平家没落とともに西海に逃れ、だんの浦で入水した薄幸の佳人。しかも幸か不幸かその直後に助けられ、都の帰り、大原の奥の寂光院じゃっこういんに余生を送ったという生涯は、まさに波乱万丈といっていい。
が、私は建礼門院については、前からいくつかの疑問を感じている。その一つは、はたして彼女が、ほんとうにヒロインという名で呼べるかどうか、ということだ。『平家』にはもともと特定の主人公はいない。が、物語を読んでいくうちに、作者が、これこそ、と思って力を入れて書いている人物が何人かいることに気がつく。たとえば、清盛、重盛、維盛、重衡 ── 彼らの人間造形に成功しているかどうかは別だが、彼らを描くにあたって、ともかくも『平家』の作者が一所懸命になっていることだけはよくわかる。が、建礼門院については、一番最後の「灌頂巻かんじょうのまき」に来るまでは、そういう感じがどうもしないのだ。
もっとも、「灌頂巻」だけでもヒロインとして描かれていればそれで十分だとも言えるかも知れない。しかし物語のバランスからいえば、どうも少し不均衡なのである。
『平家』をしめくくるヒロインとして彼女を登場させるのならば、それ以前から、もう少し、はっきりと彼女を浮立たせる描き方をしてもいいのではないか。それにしては彼女の前半生を語る『平家』の筆はあまりにも淡い。その意味で、『平家』は最初のうち、彼女を語る意志があったのかどうか、私はどうも疑問でならない。
たとえば、それ以前の彼女についての『平家』の記事はせいぜい次のようなものである。
一人いちにんは后にたたせ給ふ。王子御誕生ありて皇太子にたち、位につかせ給しかば、院号かうぶらせたまひて建礼門院とぞまうしける。入道相国の御娘なるうへ、天下の国母こくもにてましましければ、とかうまうすに及ばず。

入道相国の御むすめ建礼門院、其比そのころいまだ中宮と聞えさせたまひしが、御悩ごなうとて、雲のうへあめが下のなげきにてぞありける。諸寺に御読経始まり、諸社へ官幣をたてらる。医家薬をつくして、陰陽おんやう術をきはめ、大法秘法ひとつとして残る処なう修せられけり。されども、御悩ただにも渡らせ給はず、御懐妊とぞ聞えし。主上は今年十八、中宮は廿二にならせ給ふ。
以後、本文には徳子が妊娠中の苦しみをやわらげるために、保元の乱に破れて讃岐さぬきに流されて憤死した崇徳すとく上皇が、このころはまだ讃岐院と呼ばれていたのを改めて、崇徳とおくり名して霊をなぐさめた話、鹿ヶ谷のクーデターで鬼ヶ島に流されていた人々を俊寛以外は召し返すことに決まった話などがのさられている。
が、徳子を中心とした話をすすめるとすれば、もう少し別の書き方があってもいいはずである。大体彼女のような平家一門の娘が天皇のもとに入内じゅだいしたのは当時の人々の耳目をそばだてる事件だった。当時後白河法皇に目をかけられていた清盛は、彼女を後白河法皇の猶子、養女分としてハクをつけ、高倉帝の下に入内させている。
もっとも、彼女が入内するための条件は、この時、別の方からも作りあげられつつあった。というのは彼女の相手である高倉帝は、先に述べたように、後白河法皇と清盛の妻の異母妹、建春門院滋子との間に生まれた皇子だったからだ。滋子は、清盛とは系統を異にする公家、平氏の平時信という人の娘で、晩年の後白河の寵愛を集めた女性だった。そのため、後白河は高倉を愛し、六歳になった時、彼を皇太子の位につける。
徳子は、この滋子の異母姉にあたる時子の娘だから、高倉とはいとこ同士である。
その意味では徳子の結婚は、さほどの飛躍でもなかったわけだが、それでも正式の中宮になるには家柄の点でやや難点があったとみえて、後白河の猶子として入内した。
この事は他の公家社会の人間から見れば、まり愉快なことではなかったらしい。
── 清盛め、うまく法王さまに取り入ったな。
── 藤原氏でもないものが后になるとは何事か。
しかも高倉は後白河の実子である。そこへ猶子の徳子がとつげば、形の上では兄妹婚ということになってしまうではないか。物知り顔をした公家の中には、
── そんなばかな話はない。
まゆをひそめた者もいたようだ。が、清盛は強引にこれを押し切った。こうした事情は『平家』には描かれていない。
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