~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
新 妻 た ち
 
2018/07/21
大 納 言 典 侍(佐) (二)
平家は一応八島(屋島)へ落着くが、そこから態勢を立て直して一の谷に進撃する。ここで新たに進出して来た鎌倉勢と対決して敗れたことは先に書いた。
この時、重衡も副将軍として合戦に加わっていたが、不運にも生捕りになってしまう。
本三位中将重衡は、生田森いくたのもりの副将軍にておはしけるが、生其その勢みな落うせて、ただ主従二騎になり給ふ。三位中将其日の装束には、かちにしろう黄なる糸をも(ツ)て、むら千鳥ぬうたる直垂ひたたれに、紫すそごのよろひ着て、同市童子鹿毛といふ聞ゆる名馬に乗り給へり
というのが当日の彼のいでたちであった。この日彼は乳母の子の後藤兵衛盛長を従えていた。先に書いたように乳母と養君の関係はごく親しい。親子以上といってもいいくらいで、乳母の子となればこの上ない腹心の部下である。が、彼はこの乳母子の盛長に裏切られるのだ。この日、平家の敗色が濃くなって、重衡も助け舟に乗るために、みぎわを走らせていたが、ここで源氏方の庄四郎高家と、梶原かじわら源太景季かげすえに追いつかれる。重衡の乗る童子鹿毛は名馬だが、遂に景季の矢に当たってしまった。
もみふせたる馬ども(ツ)つくべしともおぼえず、ただのぶにのびければ、梶原源太景季、あぶみふ(ン)ばり立あがり、もしやと遠矢によ(ツ)ぴいてゐたりけるに、三位中将のさうずをのぶかにゐさせて、よはるところに、後藤兵衛盛長、わが馬めされなんずとや思ひけん、むちをあげてぞ落行ける。三位中将是をみて、「いかに盛長、年ごろ日ごろさはちぎらざりしものを。我をすてていづくへゆくぞ」との給へ共、そらきかずして、鎧に附けたるあかじるしかなぐるすてて、ただにげにこそ逃たりけれ。
(三位中将重衡は、有名な童子鹿毛に乗っていることではあり、源氏方の乗り疲れさせた馬がたやすく追いつけるとも思えなかったので、景季は鎧をふんばって立ちあがり、もした当たるかもしれぬ、と運を天に任せて遠矢を放った。ところがこれが重衡の馬のさんず(尻のちかく)に命中し、馬がぐったりとなってしまった。その時従っていた盛長は、自分の馬を取られては大変とばかり、主人をおいてかけぬけて行ってしまった。重衡が、
「おおい盛長おれを、捨ててどこへ行く。年ごろそんな約束はしていなかったぞ。そんな仲ではあるまいに」
と言っても、盛長は知らぬ顔、平家の目印の赤い布もひきちぎり、とっとと逃げて行った)
この後重衡は覚悟を決め、馬から飛び降りて、鎧をはずして自害しようとした所を、庄四郎に取り押さえられて生捕りとなる。
重衡は都に連れ戻され、しばらくは、政治的な取り引きの具に使われる。
「重衡を許してやるから、そのかわりに、三種の神器を返すように」
というのである。重衡はよもや平家がそれに応じるとは思わなかったが、朝廷の命令なのでその旨を手紙に書き、そのついでに、妻の大納言典侍へも言づてをした。
旅のそたにても、人はわれになぐさみ、我は人になぐせみたてまつりしに、ひき別て後、いかにかなしうおぼすらん。「契はくちせぬ物」と申せば、後の世にはかならずむまれ逢たてまつらん。
(京を離れて八島にいても、あなたは私がいるので心も慰められ、私もあなたに慰められて来ましたが、お別れした後は、どんなに悲しくていらっしゃいますでしょう。でも、「夫婦の契りはこの世だけでは終わらぬもの」と申しますから、後の世では、必ずお目にかかりましょう)
手紙を見て、八島の平家一門は評議を行ったが、結局これは承諾できない、ということになった。重衡の母、二位尼(時子=清盛の妻)はさんざんかきくどいたけれども、遂にその希望は入れられなかった。
ではこの時妻の大納言典侍はどうしていたか。この事は『平家』はほとんど何も書いていない。
北方きたのかた大納言すけ(典侍とも佐とも書く)殿はただなくよりほかの事なくて、つやつや御かへり事もしたまはず。
泣くだけで返事も出来なかった、というのである。このあたりの『平家』の彼女に対する筆はいかにも不十分だ。いちばん悲しく、重衡からの手紙でうちばん動揺したのは彼女であるはずなのだが、どうも物足りない感じである。
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