~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
恋 人 た ち
 
2018/06/17
祇王 祇女 仏御前 (六)
これが祇王たち舞姫の生涯である。
では果たして彼女たちが実際に当時生きていたか、というとこれを確かめるすべはない。『平家物語』の素材は大部分が実在の人物をモデルにしているが、ここは、まずそうした部分とは違ったフィクションと見ていいと思う。
が、彼女たちが実在したと否とにかかわらず、この物語は、往生念仏への希求の激しかったそのころ、おそらく、人々に大きな感動を持って受け入れられたに違いない。
しかも登場人物は白拍子 ── 当時の花形芸能人だ。祇王が実在しないとしても、彼女のように貴人の寵愛を受け、ときめいた舞姫はかなりいたのではないか。
またこの部分は短編としてかなりよくまとまっている。事件の起伏もあり、最後に仏御前が尼になって現れるといった意外性もあって、読む人や、「平曲」として聞く人を飽きさせないように出来ている。このくだりが『平家』のさわりとして、民衆に拍手をもって迎えられたであろうことは想像に難くない。
が、じつはそのゆえにこそ、現代の私たちはこの巻に、あまり魅力を感じないのではないか。
第一に物語の筋が、あまりにも常識的な仏教説話でありすぎる。現代の人間はこうしたお悟りの世界には、始めから不感症なのである。
第二に登場人物が、あまりに類型的だ。祇王も仏もとぢ・・もそこには何の個性も感じられない。
かろうじて仏には、若い女らしいドライさ、気の強さを感じさせるが、個性的というほどでもない。またとぢ・・にいたっては、あまりに通俗的常識的な母親である。
特にこの巻の最大の毛陥は、平清盛というその人の性格を全く捉えていないことであろう。ここに登場する清盛は、全くの暴君である。気まぐれに祇王を仏に乗り換えるだけでなく、祇王の気持ちを考えようともせずに、ふたたび祇王を呼び寄せて恥をかかせる。まったく思いやりのない、無神経な男として描かれている。
が、実在の清盛は、こんな愚かな男ではない。だいたい平清盛については『平家』は必ずしも好意的な立場を示していないのだが、それにしても、この巻での清盛の扱いはあまりに類型的な悪役でありすぎる。
現実の清盛は院政期に画期的な活躍をし、平家時代を作り上げた、なかなかスケールの大きい、決断に富む政治家でもあった。時としては、たしかに無神経なゴリ押しもしないではなかったが、それはむしろ政治上のことであって、それがすなわち個人的にも非情な男であったという証拠にはならないと思う。
この巻の作者は、こうした清盛の人間像全体を捉えていない。この事からして、この巻の作者がたとえ誰であるにせよ、清盛からかなり距った ── 時間的にも社会的にも ── 人でなかったか、ということを感じさせる。この巻が『平家』の本筋よりもおくれて成立したという説に、私が賛成するのはこのためである。
この巻が有名になったおかげで、清盛は世の中の人に、ひどく悪い印象を与えてしまったようである。もしこの巻がなかったら、彼の印象は、よほど違ったものになっているのではないだろうか。その意味でも、この巻は、必ずしも『平家』の中ですぐれた巻とはいえないと思うのだが、にもかかわらず、この巻が人々にもてはやされるのはなぜか、これはまさしく祇王たちの大衆的な人気のためであろう。
たしかに、現代の目から見れば、あまりに類型的ではあるが、彼女たちには、一種の哀れさがある。彼女たちは庶民だ。『平家物語』の登場者のほとんどが高位高官である中で、彼女たちは身分の低い白拍子だった。「平曲」を聞く人は、そこに自分たちと共通の身分の見出し、その哀れさに、ひとしお涙をそそられたのではないかと思う。
しかも彼女たちは、ただ哀れな存在だっただけではない。むしろ貴族に先立って現世の栄耀えようのはかなさに気づき、仏教に帰依きえして静かに往生した。祇王たち庶民の代表は、平家が栄華をきわめている最中に、はやくも出家して平家を離れ、その滅亡の渦に巻きこまれることをまぬがれた。
この意味では彼女たちは、人生のチャンピオンである。当時の人々に深くしみこんでいた専修念仏を、女性に身ながら、いち早く実行した人として、人々は彼女に限りない憧憬しょうけいすら感じたのであろう。
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