~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
恋 人 た ち
 
2018/06/19
祇王 祇女 仏御前 (七)
『平家物語』を語り伝えたのが 琵琶 びわ 法師であることを思い合わせれば、この部分が後に挿入されたと考えることは、はなはだ興味深い。彼らに語り継がれ、時代が下るにつれてしだいに『平家』が仏教色を濃くしていった一つの証拠がここにあるとも見られるからだ。しかも特に念仏思想が押し出されてることにも注目していいのではないかと思う。いずれこのことは後に触れるかもしれないが・・・・
『平家』の中で、こんなふうに仏教の助けを借りて現世の 修羅 しゅら を避け得た人は、彼女たちのほかに平 重盛 しげもり (清盛の長男)がいる。そしてこの重盛と祇王たちが、『平家』の中では昔から何となく評判のいい人物だったこともおもしろい。特に祇王たちが女性であり、かつ一番華やかで世俗的な幸福を追いかけそうな白拍子であることが、彼女たちの印象を深めている。
人々は琵琶法師の語る「平曲」を聞くとき、彼女たちが実在であると否とにかかわらず、その中に、自分たち庶民の姿を見出し、その人生に対して見開かれた眼差まなざしの深さに感嘆し、その哀れさの中にも、ほっとした救いのようなその人生にたいして見開かれた眼差ものを感じたのではないだろうか。古来、庶民の同情と共感は、物語の主人公に永遠の命を与える。かくて彼女たちは、あたかも『平家』の女主人公の一人のような地位を獲得するのである。
私は近頃になって、何度か古典の伝統を伝える検校けんぎょうたちが「平曲」を語るのを聞いた。はたして現存の曲が、そのまま全盛時代の「平曲」そのものであるかどうかはわからないが、単調ながら、何か神秘的な響きを持つ調子で語られるとき、活字の上ではいかにも彫が浅く類型的に見える彼女たちが、不思議なかげをひきながら、鮮明に浮かび上がってくるのではないかと ── 残念ながら私の聞いたのは祇王の下りではないので、想像をめぐらせるだけでしかないのだが、少なくともそんなふうな気がした。
ここに「語り物」と詠む文学の差がある。その意味で、「平家」はいわゆる小説と同じに扱えないのである。
が、こうした問題を別にして、最後にもう一度、彼女たちの人間像にもどってみよう。
彼女たちは、たしかに『平家』の中の人気者だ。だからといって、いま、私たちが『平家』の世界を読む場合、彼女たちの存在をあまり買いかぶりすぎてはいけないと思う。始めに言ったように、彼女たちはあくまでも脇役だし、現在の目からすると、その描き方は必ずしもみごととは言えないからだ。
彼女たちはたしかに哀れである。その哀れさで多くの民衆を引き付けたかもしれないが、それだけに常套じょうとう的な類型人物であることはいなめない。これは同じく『平家』の作者が、心からの同情と好意を寄せて描いている重盛が、案外今日の目で見ると平板で、血の通った人間として描けていないことと共有することかも知れない。作者の意図と、出来上がった作品の間には往々こうしたギャップはあるものなのだ。
これは一つの提案なのだが、私は『平家』を読む時、一度この巻をとなして読んでみることをおすすめしたい。こうすると、物語の流れにも少し違った感じを受けるだろうし、なぜ後に祇王たちのようなフィクション人物を入れたくなったのかということも、案外はっきるするのではないかと思う。
なお京都の嵯峨にある祇王寺は彼女たちに住んだ寺のあとと言われている。もともと彼女たちが作者の創造力から生まれた架空の人物であってみれば、それ以上の詮索は無用の事であろう。