〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part X-U』 〜 〜
== 『般 若 心 経』==

2017/09/02 (土) 何のために 『般若心経』 を読むのですか。 

お経を読むことで、仏の心をいただき、自分の心も知っていただくのです。
お経を読む、つまり 「読経どきょう 」 は、習慣がない人にとってはなかなか難しく感じますが、慣れてしまえば、難しいということはありません。むしろ毎日読んでいると、読まない日には何か忘れ物をしたような気分にすらなります。
お経は何のために読むのでしょう。お経はわれわれに対する教えなのだから、仏様にあげても無意味だとおいう人もおります。確かに一理ありますが、仏教の教えは違います。仏様に向かってあげることは、すなわち信仰なのです。
たとえば道徳の書物なら、自分でどこでも好きな時に読んでおけばよいのでしょう。しかし、仏様に向かってあげることの意味は、ひとつには読む姿勢をただすことにあります。仏様が見ている所であげるのです。また読むことを通じて仏様との交流が生まれます。これを 「感応道交かんのうどうこう 」 といいまして、お経を読むことを通じて仏の心をいただくとともに、自分の心もまた仏に知っていただきたい。こういう姿勢で読むことで、仏と私というものが、しだいにひとつになってまいります。
読経の極意ごくい は、読んでいるのが仏なのか私なのか、それを聞いているのが私なのか仏なのかわからない、という境地です。そうなると、自分と仏がひとつになります。もはや、あげるもあげられるもないのです。でもここに至るには、やはり心を込めて仏様に向かってあげているとうことでないとはじまりません。
どうも最近の仏教は、仏様不在の傾向にあるように感じます。要するに、仏や神のようなものを拝むという行為そのものが、幼稚なつまらないことであり、真理追究こそが本当の宗教のすべきことだというのです。こういうのは、分かっているようで何も分かっていない人の戯言ざれごと です。
真理追究は、宗教だけの使命ではなりません。医学でも物理学でも化学でも歴史学でも、真理を追究するのは当然のことです。
しかし、その真理はそれぞれ別のものです。宗教と科学は、別のものです。別のものですから、宗教が特に科学的である必要は、私はないと思います。もちろん、 「反科学的」 であってはいけません。それが極端なものであれば、たとえば地動説を唱えたガレリオを糾弾したような、中世のキリスト教が犯したのと同じ過ちになります。ですが 「非科学的」 であったとしても、何ら問題はないでしょう。
たとえば、日本で最も大きい宗派の一つである浄土真宗や浄土宗では、西方充満億土という遠い所に極楽があり、そこに阿弥陀あみだ 如来にょらい がおいでになるということになっています。阿弥陀様を信じる人は、亡くなればそこへ行きます。これは少なくとも、科学的に証明できる事実ではありません。だからといって、非難されたり否定されたりすることではないはずです。お浄土を信じる人にとっては、厳然たる宗教的現実なのです。
私が高校生の頃、倫理学の授業で、教師が格宗教の説く宇宙の始まりをあげ、こんな非科学的な説を長らく人類は信じていたのだと嘲笑あざわら うようなことを言いました。こういう人は、少なくとも倫理学など教える資格はないと思います。
『実践 般若心経入門』 著:羽田 守快 ヨリ
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