いよいよ最後です。まず
「この悟 りの智慧ちえ
の聖句せいく をここで告げる」
というような呼びかけがあり、以下に 『般若心経はんにゃしんぎょう
』 の呪しゅ 、つまり真言しんごん
が説かれるわけであります。 この真言はだいたい、「行こう、行こう、みんなで行こう。あの悟りの岸へ。成就じょうじゅ
あれ」 などというような意味に訳されることが多いようです。その内容は、訳す人によりどれも少しずつ違いますが、まず大同小異といったところのように思います。しかし梵語ぼんご
の専門家の話によれば、これらは本当のところを言うと、正確には訳せないのだというのが正しいらしいのです。 確かにギャテイとは 「行く」 という動詞らしいのですが、ただの
「行く」 ではなくて、受動完了形になっているそうです。ですから、あえて訳すなら 「行かされてしまった」 のような変な文句になってしまいます。この受動形というところは、とても気になります。つまり
『般若心経』 は、従来言われてきたような、般若の智慧ちえ
を説明した哲学的なお経であるというようなものではなく、般若の信仰を説くお経なのだと思うからです。 このため般若の功徳くどく
により、 「彼岸ひがん に行かせてもらう」
という受動的な表現であり、決して 「行く」 とか 「行こう」 という能動的な表現ではないのだと思います。つまり、般若波羅蜜はらみつ
のご利益りやく により、彼岸に行かせていただくのです。ここでいう般若波羅蜜は、まだ密教の
「般若仏母ぶつも 」 のような、明確な仏としての性格を持っては登場していませんが、それでも般若波羅蜜が、実践する対象から礼拝する対象へと変化しつつある過程のもの、しかももう、かなり後者よりのものと考えていいと思うのです。 |