同時代に、弘法大師と並ぶ仏教の旗頭
である天台宗の伝教大師でんぎょうだいし
最澄さいちょう は、南都仏教各派と喧々囂々けんけんごうごう
のやりとりをして、結局生前には念頭であった大乗戒壇だいじょうかいだん
(大乗大僧戒だいそうかい
という大乗仏教特有の菩薩戒を授ける 壇場だんじょう
。最澄以前の日本には、純然たる大乗戒壇は存在しなかった) を建てることが出来ませんでした。これは南都の僧網そうごう
という官僧組織が、こぞって反対したためです。今と違って、この時代の僧侶は公務員ですから、お坊さんのことやお寺のことは、何でもこの僧網が決めていました。 これに比べて空海は、南都とも最澄ほどに衝突した形跡はありません。空海は学生がくしょう
のころ、南都仏教の拠点である東大寺で学んだこともあり、その縁か東大寺真言院などとも交流がありました。ただ、最澄と激しく争った法相宗ほっそうしゅう
のコ一とくいち にはやはり、空海の考え方や方法に対して疑問を投げかけた
『真言宗しんごんしゅう 未決みけつ
』 という著書があります。 最澄も入唐にゅうとう
した折に、少しだけ密教を学びましたが、何と言っても本来の目的が天台教学でしたから、それは不完全なものでした。ことに密教に関しては空海にはかないません。そこで最澄は弟子の泰範たいはん
や円澄えんちょう 、光定こうじょう
らを空海のもとへ派遣して密教を学ばせますが、泰範は空海とその教説の魅力にひかれ、ついに最澄のもとへは帰って来ませんでした。 その後天台宗でも、負けじと円仁えんじん
(794〜864) 、円珍えんちん
(814〜891) という優秀なお坊さんを中国に派遣し、密教の新来経典などを持ち帰りました。ですから日本の密教には、真言宗の
「東密とうみつ 」 と天台宗の
「台密たいみつ 」 というものがあります。ちなみに円珍は、天台寺門じもん
派の祖ですが、空海の甥でもあります。 『般若心経』 は密教経典ではありませんが、弘法大師空海は 『般若心経はんにゃしんぎょう
秘鍵ひけん 』 を著し、これを密教的に解釈しました。空海によれば
「顕密けんみつ は人にあり」
ということで、顕教のお経でも、密教を学んだ人が読めば、即身成仏の教えになるのだと説きました。空海はまた、漢字のお経のままでは日本の神々には分かりにくいという理由で、神社へお参りするには自分のつくったこの
『般若心経秘鍵』 を読むことをすすめています。 それのしても、実際に即身成仏とは、あり得ることなのでしょうか。私はあると思います。ただこの身のままということですから、即身成仏したといっても、身も心も人間のままでありましょう。あくまでも人間という限界は破らないままに、仏の心と同化し、仏の救いを実行することが、そのまま即身成仏ではないでしょうか。 だから即身成仏とは、まず衆生しゅじょう
救済きゅうさい のために諸仏の請願せいがん
を実行する、いわば仏の代理人となるということが重要だと思います。ここにいう諸仏の請願とは、仏が下さるご利益りやく
のことです。現実に人々のために努力して働くことも、仏の心にかなった行為ですが、それにもまして密教には、いろいろなご祈祷きとう
が用意されています。願いごとを受けてくださる仏様もたくさんいらっしゃいます。病気や災難を逃れる、はたまた生活を豊かにする、人の敬愛を集める、悪魔や悪人を退ける、などです。こうしたご祈祷の際、真言宗でも
『般若心経』 はよく唱えられていますし、 『般若心経秘鍵』 が読まれる機会も多いようです。 |
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