〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part X-U』 〜 〜
== 『般 若 心 経』==

2017/08/29 (火) 

これは、禅宗にあるお話です。中国の禅宗を実質的に創始したことで知られる馬祖ばそ 道一どういつ (709〜788) が若い頃、南嶽なんがく (現湖南省) の禅堂で、激しい坐禅修行をしていた時のことです。
あるとき、道一がいつものように坐禅をしていると、師の懐譲かいじょう (677〜744) が現れました。老師は、熱心に修行する道一に対して、 「なぜすわ る」 と問います。道一は、 「仏になるのです」 と答え、そのまま坐禅を続けました。それを聞いた老師は、おもむろにそばに落ちていたかわら の破片を拾いあげ、黙って石の上で磨きはじめたのです。奇怪なことをなさると思い、 「老師、何をしているのですか」 と尋ねますと 「うん、わしはこれを磨いて鏡にしようと思う」 と答えます。道一は思わず笑って 「老師、それは無理ですよ」 と言うと、 「そうかな。なぜかな」 「だって、もともとただの瓦じゃないですか。いくら磨いても鏡にはなりません」 。そこで老師は、 「瓦を磨いて鏡にならないというのなら、坐禅をしたからといって仏になることも出来ないだろう」 と言われたというのです。
老師はこの時、 「お前は坐禅によって仏にはなるのではなく、すでに仏である。坐禅と仏とを分かってはいけない」 と言いたかったのに違いありません。
ただ形式に固執し、ひたすら坐禅を続けることだけにとらわれていては、本質を見失います。同様に、仏になることを目的とする、つまり仏とは今の自分とは別の場所にある存在だ、などと思って修行していては、どこまで行ってもらち があかないのです。自分は生きながらすでに仏であるという確信がなければ、修行ははじまりません。この信念にもとづく覚悟を大勇猛心だいゆうみょうしん といいます。
古人の教えに、 「一丈いちじょう 塀を越えようと思うなら、一丈尺を越えようと思え」 というものがあります。目標は高く持たねば、前に進むことは出来ません。般若波羅蜜多により無上正等菩提を得たという三世の仏たちも、もとは人です。われも人なら彼も人です。人であることに、何も違いはありません。
悟りは、自分の存在が宝だと知ることに他なりません。 『法華経』 には、こんな話があります。
ある貧しい男が、久しぶりに友達と会って、食事などして過ごしました。そのうちに酔いがまわったのか、男は眠り込んでしまいました。男の貧しい境遇を知った友は、彼を気の毒に思いました。そこで一計を案じ、こっそりと男の衣に大変な値打ちのある宝玉を い込んだのです。これででこの男も助かるに違いない。友は、男がやがて帰宅すれば、宝玉に気がつき、豊かな生活をすることが出来るだろうと信じました。
さて年月は移り、この男は再び男と出会いました。驚いたことに、男は前にもましてみずぼらしい姿をして、すかkり落ちぶれた様子です。不思議に思って宝玉のことを聞くと、なんと男は、そんなことは全然知らなかったと言います。男は友がひそかに衣に縫い付けた宝玉にはまったく気がつかず、ずっと貧乏に苦しんでいたのでした。
これは法華経七喩しちゆ のうち、 「衣裏えり 繋珠けいしゅ 」 というたとえ話です。もうおわかりでしょう。この玉は、ほかでもない 「仏性ぶっしょう 」 のことです。それを知らない男とは、われわれ凡夫のことです。知っていれば貧乏はしないのに、知らないからそのままなのです。悟れる存在とわれわれの間には、偉いとか偉くないなどではなく、このことを知っているのか知らないでいるかの違いがあるだけです。しかし、これはとても大きな違いなのです。
『実践 般若心経入門』 著:羽田 守快 ヨリ
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