阿耨
多羅たら 三藐三さんみゃく
菩提ぼたい とは、アヌッターラ・サンミャク・サンボーディという梵語ぼんご
の音写で、 「無上むじょう 正等しょうとう
菩提ぼだい 」 と漢訳され、最上の悟さと
りを表しています。これもお釈迦しゃか
様の悟りのことです。三世さんぜ
の仏も皆、般若はんにゃ 波羅はら
蜜多みつた の修行によって無上の悟りを得たというのですが、般若波羅蜜多は、菩薩ぼさつ
の六波羅蜜の最後に位置する智慧ちえ
ですから、このことはとりもなおさず、菩薩道を正しく歩めば、お釈迦様と同じ悟りの境涯きょうがい
に入れるということです。 『法華経ほけきょう
』 などでは本来、声聞しょもん
や縁覚えんがく や菩薩という区別はなく、如来にょらい
になるほかに仏道などあり得ません。誰もが等しく、例外なく仏になれるということを 「一仏乗いちぶつじょう
」 と言いますから、仏と菩薩の道は別々なように思いますが、実は大乗だいじょう
の菩薩道が、そのまま一仏乗に他ならないというこtであるます。 観音かんのん
様などは、菩薩であっても、実は如来である阿弥陀あみだ
仏ぶつ の化身けしん
です。それをもっと具体的な姿にしますと、十一面観音のお姿になります。十一面観音には、文字通り十一のお顔がありますが、頂上には別に如来様のお顔も載っています。これはすでに菩薩の十段階の修行を終えて、仏の等覚とうがく
(悟りの境涯) の位に入っていることを表現したものといいます。 最上の悟りなどと言いますと、何かもう凡夫ぼんぷ
のわれわれには及びのつかない話のようですが、それどもすでに仏はわれわれの内にいて掘り起こされるのを待っているのです。 |