〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part X-U』 〜 〜
== 『般 若 心 経』==

2017/08/27 (日) 

仏教でいうこの世とは、実は今われわれが生きている世界だけではないのです。別次元にさらに無数の世界があります。われわれが住む世界は、南贍部州なんせんぶしゅう というひとつの大陸ですが、他にも東勝身州とうしょうしんしゅう西午さいご 貨州けしゅう北倶ほくく 盧州るしゅう という世界があり、それぞれには身長も寿命もわれわれとは違う人がいるとされています。これらすべての大陸に加え、地獄から天界である初禅天しょぜんてん までを一世界、一須弥しゅみ 世界とします。しかし、この宇宙全体を見ますと、この巨大な一須弥世界すら、実に十億個もある世界のひとつにすぎないというのです。すべてをまとめた宇宙を 「三千大千世界」 といいます。まるでSFにある多次元宇宙のようですね。このように仏教的宇宙観にかかれば世界も無数ですし、過去も未来も無限ですから。いくら仏様がいても多すぎるということはありません。
比叡山ひえいざん の行院に行きますと、行の中ごろに、この三千仏の名を唱える五体ごたい 投地とうち礼拝らいはい が課せられます。五体投地というのは仏教の正式な礼拝形式で、まず両膝をつけ、次に両ひじ 、次に額をすりつけて両掌を捧げるように上に向ける、きわめて丁寧ていねい な礼拝のスタイルです。行院では、一日千仏として、これを三日間やります。初めての人には、これは大変な難行です。かなり後々まで足をいた めてしまうこともあります。インドやチベット、ネパールでは、この五体投地のみで、聖地カイラスまで数百キロの道のりを進み、巡礼するという習慣が今もさかんに行われていると言いますから驚きです。
また、比叡山では好相行こうそうぎょう といって、伝教大師でんぎょうだいし御廟ごびょう では一日に三千仏、すべてを礼拝します。もちろん五体投地のスタイルでいたします。この行は 「仏立三昧ぶつりゅうざんまい 」 といわれるもので、 「見仏けんぶつ 」 といって、仏様が現れるまでやるのですから大変です。仏様が出て来ないと、いつまでも終わりません。たとえ出て来ても、先輩のお坊さんから本物かどうかのチェックが入りますから、苦し紛れに幻覚を見た、という言い逃れは通らないのです。ちなみに真正の仏様は、目をつぶっても開いていても見えるのだそうです。
ただし、こういう仏様を見ることを目的とした特殊な行のほかでは、あまりそういうことを言わないのが普通です。 『金剛経こんぎょうきょう 』 では 「しき をもって我を求め、音声おんじょう をもって我を求める者、この人は邪行じゃぎょう を行ず」 といって警告しています。
ときどき、 「私には仏様が見えるのですが」 という質問をいただきます。ある人など、 「毎晩、偉い神様仏様が枕元にたくさん出て来て怖い。私は選ばれた人だから修行しなさいと言われましたが、どうしたらいいのでしょう」 と言って来ました。この人は霊覚れいかく といって、普通ではない感覚があるのかも知れません。
人には見えないものが見える。そういう人は案外いるものです。ただそれを口にすると、変な人だと思われるのがせいぜいで、助けになることはないと知っているから、ひた隠しにしている人が多いようです。この方の場合は、いろいろな状況からして、少なくとも本物の神仏ではないと感じました。 「今度おいでになったら、私ではお役に立てませんからお引き取り下さい、と言いなさい」 と言っておきました。
厳しい行をしてやっと見せていただけるようなものですから、そんなにやたら見えるものではないと思います。ただ、何かの時に仏様の存在を感じたり、お姿が脳裏に浮かぶなどといったことは、信仰の深い人ならよくあることです。本気で拝んだり信仰したりしていれば、そんなに珍しいことではありませんが、これも信仰していない人には理解の及ばないことかも知れません。
三世諸仏に話を戻しますと、仏様には阿弥陀あみだ 様、薬師やくし 様、大日だいにち 様などたくさんおられますが 『法華経ほけきょう 』 では 「諸仏の言葉は異なることがない」 と言われております。このことは、仏は数多くとも、その示す真理は究極的にはひとつであることを意味します。 『般若心経はんにゃしんぎょう 』 の示す真理もまた、ほかのお経が説く真理と異なるものではないのです。

『実践 般若心経入門』 著:羽田 守快 ヨリ
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