〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part X-U』 〜 〜
== 『般 若 心 経』==

2017/08/25 (金) 

しかしながら涅槃絵は、大乗仏教でも礼拝らいはい されてきました。見ていると、なかなか面白い絵です。亡くなったお釈迦様の周囲を仏弟子や信徒、様々な動物、阿修羅あしゅら や龍王、さらには鬼神や神々までもがとりまいています。嘆き苦しみ、のたうちまわる様子が見えるのは、声聞しょうもん 衆です。彼らは灰身けしん 滅智めつち を目指すはずの阿羅漢あらかん ですが、哀れにもお釈迦様の死を目前にして、動揺しきっています。逆に菩薩は、もの げに見つめるのみです。右上空から雲に乗ってやって来るのは、お釈迦様の母上である麻耶まや 夫人ぶにん です。彼女は不死の霊薬を届けの来たのですが、間に合いませんでした。
この絵を見て、長い間、私は疑問に思うことがありました。お釈迦様の入滅を静かに見つめる菩薩と、嘆き苦しむ阿羅漢というこの表現は、まったく逆であってもよさそうなのに、と思ったのです。なぜなら、菩薩というのは悟ってなお情けある存在で、一方の阿羅漢は、灰身滅智を目指す冷徹な知性の持ち主です。ならば、お釈迦様の死を前にしたとき、嘆きの感情をあrわにするのは菩薩の方で、阿羅漢はむしろ感情を表にしないのがふさわしいのではないかと思ったからです。
しかし。これは実は大乗仏教の絵画なのです。小乗しょうじょう (上座部) の聖者といわれる阿羅漢は、大乗では批判の対象となります。ですから、ここには阿羅漢の矛盾した姿が描かれているのです。
彼らは悟り澄ましてはいますが、本当は煩悩の火を完全に滅盡めつじん した人などではないのだということです。そんなことは土台、無理なのです。また、描かれているこの菩薩は、おそらく大菩薩でありましょう。生命の輪廻の壁を越えて存在することの出来る彼らにとっても、お釈迦様の臨終は厳粛なものなのでしょう。
大乗仏教においては、お釈迦様は 「往来おうらい 娑婆しゃば 八千度はっせんど 」 といわれ、過去八○○○回もこの世と浄土とを往来されたと言います。これは輪廻しているのではなく、仏法をお説き下さるために、人間の世界にわざわざ生まれて来られるのです。また、不死の霊薬など、仏教ではありません。これが間に合わないことも、そのようなものは本当はあり得ないということを表現しているのでしょう。現代のわれわれから見れば、不死などあり得ないのは分かりきっていますが、インドにはいまだに 「私は不死だ」 などという行者もいて、信徒を集めているそうですから、当時ならなおのこと、不死が現実味を帯びてとらえられていたと思います。
大乗仏教では、涅槃は常・楽・我・浄の四コよりなるといいます。如来の身は永遠不滅なるがゆえに常、あらゆる苦を滅ぼすが故に楽、その本体は常住の仏性なるが故に我、清らかなるが故に浄である、といいます。何とこれらは、一切を無常、苦、無我、そして不浄としていた原始仏教や上座部仏教とは、まったく逆の立場に立つ思想です。
究竟涅槃とは、先に述べた常・楽・我。浄の四コを得た境地に至ることにほかなりません。二度と輪廻しないということではないのです。
『実践 般若心経入門』 著:羽田 守快 ヨリ
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