究
竟きょう 涅ね
槃はん |
(書き下し) | 涅槃を究竟する。 | (現代語訳) | 仏の深き悟さと
りの境地を得たのである。 |
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ここでいう涅槃とは、煩悩ぼんのう
の炎を吹き消し、輪廻の輪から脱することではない。 常・楽・我・浄の四コしとく
を得た境地に至ることである。 |
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究竟くきょう
という言葉は、耳慣れないのかも知れませんが、これも梵語ぼんご
から漢訳された仏教用語で、無限や究極といった、きわまった境地を表すものです。だから究竟涅槃ねはん
をわかりやすく言い換えれば、 「究極の涅槃」 というようなことになります。 この涅槃も、ニルヴァーナという梵語を漢訳したものです。本来は、炎を吹き消すという意味で、寂滅じゃくめつ
ともいいます。この炎は何かといえば、煩悩ぼんのう
の炎であります。原始仏教では、欲望すべてが煩悩となるのですが、その炎を消してしまえば、心は鎮まり、二度と輪廻りんね
しないということで、これを最終的な目的としました。上座部における涅槃も、同じとらえ方です。 それくらい、生まれ変わることを恐れました。いわば存在の完全生滅、完全な死を望んだわけですから、現代人からはいささか分かりかねるものがあります。もっとも現代人でも、生まれ変わりというものがあるならば、もう二度と生まれてきたくないという人は、案外多いようです。 とりわけ多感な人や辛い目を見続けた人がそう考えるのはやむを得ませんが、お釈迦しゃか
様が言われるように、何せ 「存在は苦である」 と言うのですから、原始仏教教団にもそんな人が多かったのかも知れません。 涅槃には 「無余むよ
涅槃」 といい、悟さと りを開いた聖者が
「入滅にゅうめつ 」 つまり死ぬことにより完全に消滅することと、
「有余うよ 涅槃」 といい、涅槃に至る悟りは開いたものの、まだ肉体に生命を残したままの涅槃とがあります。有余涅槃は、生きたまま悟られたお釈迦様がよい例ですね。一方、涅槃絵といって、お釈迦様が亡くなった時の光景を描いた絵がありますが、こちらは無余涅槃の方です。ただし、このように有余涅槃とか無余涅槃とかいうのは、大乗だいじょう
仏教の考え方ではありません。 |