遠
離り 一いつ
切さい 顛てん
倒どう 夢む
想そう |
(書き下し) | 一切の顛倒夢想を遠離して | (現代語訳) | いっさいの迷いを退しりぞ
けて |
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われわれは夢の中で生き、夢の中で老い、夢の中で死んでいく。 しかし般若はんにゃ
の智慧を得るならば、そうした一切の迷いから離れることが出来る。 |
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顛倒夢想てんどうむそう
とは、誤ったものの見方のことですが、指摘されて 「ああ、間違っていた」 と言えるような軽いものではありません。夢想というように、夢の中にいるようなものでえす。夢の中で
「これは夢なんだ」 とは、あまり思いません。覚めるまで夢のままです。 『般若心経はんにゃしんぎょう
』 は、実はわれわれは皆そうした夢の中にいるのだというのです。夢の中で生き、夢の中で老い、夢の中で死んでいく。それの繰り返しであるというのです。 夢の中で宝を探し、成功したの失敗したの、結婚したの失恋したのと言っている。たまさか、人間は何のために生きているのかと考えても、何の答えも得られず、また日常の中に埋もれていく。それがわれわれの姿です。 今はもうありませんが以前、東京の東中野ということろに
「どうぶつの堂」 というフクロウを売っている店がありました。どうぶつ堂というくらいで、はじめはいろいろな珍しい動物を売っていたのですが、しまいにはフクロウだけを売っている、世にも珍しい店になりました。私は生きものが好きで、東京へ行くとよく遊びに寄っておりましたが、ここのオーナーの飴屋あめや
法水のりみず という人が実におもしろい人で、本当はほかにも芸術活動とか、いろいろなことをしている方らしいのですが、彼は
「どうぶつの数」 ということを言います。 「動物をよく見なさい。食べて出して増えて死ぬ。それが動物だ」 と、彼は言います。動物が教祖であり、ご本尊なのです。それ以外、余計なことは言いません。 考えてみれば、人間も偉そうな御託ごたく
を並べている以外は、まったく動物と同じではないでしょうか。少なくても生きものとしての基本がどこかえ行ってしまっては、それは宗教であれ哲学であれ、ホンモノではないはずです。 私も動物に教えられたことが多々あります。たとえばある人は、生まれたからにはひとかどのものにならねば駄目だと言います。こういう考えの人は、わりあい男性に多いですね。昔でいうなら
「天下を取る」 というようなもので、どちらかといえば私も長いこと、どこかそんな風に思っていました。しかし最近では、そんなことは大したことではないのではないかと思います。 偉い人も、アスファルトの道ばたにわずかに生え残った草のような存在の人でも、宇宙の中では大した違いはないのではないでしょうか。ただ生きていればそれだけで、まずまず無上の価値なのではないかと思うのです。 もちろん、偉大な功績を残した人がいてこそ、人類も自然に裨益ひえき
するところが大きいことは否定できません。しかし、それは本当にほんのひと握りの人のことです。ほとんどの人は、その恩恵を受けるのに終始する側ではありませんか。ほとんどの人は、どんなに一生懸命に生きても、家族友人のほかにはその存在を誰にも知られることはなく、ひっそりと死んでいくのです。特別に偉いことをしたり、出世しなくては価値がないなら、残念ながらほとんどの人の人生は、これという価値がないことになります。それはおかしなことと言わざるを得ません。 猫でも蝉せみ
でも深海魚でも、皆それぞれに生きているだけで価値があるのです。彼らが人間の役に立つか立たないかなど、どうでもいいたわごとです。生きている目的は、生きていくことそのものです。ほかにはありません。何のために生きるのかは、自分が決めていくものです。それが一人ひとりに与えられた課題なのです。しかも、それは何でもいいのです。悪事であってはいけないと思いますが、たとえば茶碗づくりに一生かけてもいい。茶碗そのものの価値は、茶碗以上でも以下でもないでしょう。すべての価値は、あくまでもこちらが置くものです。 お釈迦様しゃか
は生まれたとき、 「天上てんじょう
天下てんげ 唯我ゆいが
独尊どくそん 」 と言ったといいます。これは何も、お釈迦様だけに限ったことではありません。それぞれが唯我独尊でいいのだと思います。自分の外にある色々なものに価値に迷い、一番大事な自分自身の価値を喪失する。これは遠離おんり
すべき大きな顛倒夢想でありましょう。般若はんにゃ
の智慧ちえ 、すなわち前に述べた五智ごち
が備わったとき、人は何にとらわれ、何にとらわれてはいけないのかが、分かるようになります。この境地こそが、一切の迷妄めいもう
を離れる、すなわち遠離一切顛倒夢想にほかなりません。 |