心
無む ?けい
礙げ |
(書き下し) | 心に?けい
礙げ なく | (現代語訳) | こだわりのない自由な境地を得て |
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心に?礙けいげ
がないとは、単にこだわりがないということではない。 災難にあっても、そこからスルリと抜け出せるような、自在な境地をいうのである。 |
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前の記述を受け、般若はんにゃ
波羅はら 蜜多みつた
によれば、心に?礙けいげ がないといいます。 無む
?礙けいげ は 「こだわりがない」
などと訳しますが、こだわりがないというだけなら、大したご利益りやく
ではありません。意地の悪いことをいえば、むしろ無責任な人ほど、たいて皆こだわりがありません。現代の日本のようにストレスの多い社会だと、こだわりがないというのがいかにも大事なことのように聞こえるだけであって、仕事でも芸術でも、こだわらずしてよいものが出来るはずなどないのです。 こだわらないということは、安易に流れた場合には、逃げるということになります。最近では、娘さんをお嫁に出すお母さんがよく
「嫌いだったらいつでも帰っていらっしゃい」 などと言ったりします。ひと昔前には 「女は三さんかい
界に家なし」 つまり、女性が安住できる家はどこにもない、などという差別的なことが平気で言われていました。ちなみに、この三界というのも仏教から出た言葉で、一切いっさい
衆生しゅじょう が輪廻りんね
転生てんしょう する欲界よっかい
、色界しきかい 、無色界むしきかい
を指します。そのような時代から考えれば、確かに良い時代になったとも言えましょうが、これも程度の問題で、何かあればすぐ実家に帰るようでは、いつまでも新しい家庭というものが定まりません。また、学校へ行かなくても、こだわらないから登校しない。体に悪くてもこだわらないといって深酒するなど、必ずしもよいことばかりではないはずです。 無?礙は、字を見れば確かに
「こだわらない」 といおうように読めますが、これはむしろ自由自在と読んだ方が、分かりやすいかも知れません。仏教語を使って、自然じねん
法爾ほうに とか融通ゆうずう
無碍むげ といってもいいでしょう。こだわるとかこだわらないとかいう自分の努力を超えて、たとえば手の間から鰻うなぎ
がスルスルと抜けていくように自由で、災難にあっても何事もなかったかのようにスルリと抜けるということです。あるがままに生きていくと言いますか、そういう大きな自由な境地であります。ものの見方も自在ならばこそ、観自在というのでしょう。 『般若心経はんにゃしんぎょう
』 は観音様かんのんさま 観音様かんのんさま
のお悟りなのですから、無?礙むけいげ
とはそういうことなのだと思います。これとは逆に、自在ということのない人は、つまらないことにえらくこだわり、固執します。それこそ悪くこだわるわけであります。よいこだわりの場合は、大変な時でも焦りが少なく、腹のすわった覚悟というものがあります。悪くこだわると、疑心暗鬼とイライラに責めさいなまれます。本当に自由な人というのは、今まで執着しゅうちゃく
していたものでもポンと捨てられるような見きわめがあります。 世の中には、人の心さえもお金で買える、というようなことを口にする人がいます。いくらあっても困らないのはお金だなどとも言いますが、お金は自分のためにあるものであり、お金のために自分がいるのではありません。もちろんお金が全然ないというのも困りますが、欲に眼がくらむと、これが分からなくなるようです。日夜、お金のやりくりにのみ心を苦しめ、枕を高くして寝られないような状態が、どうして幸せと言えましょうか。 賢人といわれる人は、無用な欲を持たないよう警戒するものです。欲が自分を縛るものであると知っているからです。無用な欲がなければ、とても自由であり、なおかつ自在であります。 ある人がたまたま訪れた托鉢たくはつ
のお坊さんに 「坊さんというのは、一般の人に比べて何かと窮屈きゅうくつ
じゃありませんか。酒だってあんまりおおっぴらに飲めないでしょう」 と、冗談交じりに尋ねましたら、 「いや、坊さんくらい自由で気ままなものはない。どんな偉い人とでも衣に袈裟けさ
の姿のまま。お洒落しゃれ もしないでも面会できるし、何もなくなれば鉢ひとつで旅に出られる。そんなことが出来るのは、坊さんだけだ」
と言われたという話を聞いたことがあります。 本当に自由な人というのは、その身ひとつでどこへでもひょいひょいと行ける人です。 『阿含経あごんきょう
』 には、 「飾り立てた孔雀くじゃく
は、白い鳩が空を飛ぶのには遠く及ばない」 という言葉があります。 |
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