そこで出てくる唯一の方法が、般若波羅蜜に対する
「信仰」 なのです。 『大品
般若経はんにゃきょう 大明品だいみょうぽん
』 では、仏が帝釈天たいしゃくてん
を相手に、 「魔訶まか 般若波羅蜜多」
と唱えることで得られる様々な功徳くどく
を説いています。これによると、般若波羅蜜多を耳にし、親しみ、念じたり読誦どくじゅ
などをするなら、男女を問わず戦乱に巻き込まれず、また自他の煩悩ぼんのう
を除き、刀や弓にも倒れず、毒薬や妖術にも負けることはない、といいます。さらに、ただ読みもせず、念じもしないでも般若波羅蜜多と書写しておきさえすれば、これを守る護法の天神の加護で、悪人や猛獣の難を免まぬか
れ、害されることはないといいます。さらにこれを祀り、供養すれば、二千の国土におのおの七宝しっぽう
の仏塔をつくって供養するのに勝る、実に多くの福分を得るのだと説いています。さらに、まだまだ沢山のご利益があり、とてもここでは述べきれません。 こうしたご利益があるのも、般若波羅蜜はその内に仏法にあるすべての功徳を秘めているからなのだと説かれています。ですから般若波羅蜜の修行に至らない人は、これを信仰して福徳を積むことだけでも大変なもになのです。そして、これだけ多くに功徳がある般若波羅蜜であるのに供養する者が少ないのは、それらの衆生しゅじょう
が過去世において仏に会ったり、仏道を聞くなどの仏縁を得ていないからなのだと 『大般若経』 は語ります。つまり、般若波羅蜜を供養することすら、すでに得がたいことだというのです。 また、菩薩道ぼさつどう
に入る者の少ないことも述べられています。 『大品だいぽん
般若経』 では。菩薩は般若波羅蜜の修行ができる存在であり、それが出来ないような菩薩は認められていないのです。このように 『大品般若経』 を見ますと、大乗仏教の修行者をおしなべて菩薩とはいうもの0の、そこにはかなり厳しい条件があるようです。こうした経典の記述はおそらく、般若波羅蜜を修行する人たちより、信仰し、供養しようという人たちを多く生んでいったと思います。これこそが大乗仏教の精神であり、このお経の目的だったのです。 後に密教になりますと、般若波羅蜜は、般若仏母ぶつも
という尊格に変化します。これは、般若波羅蜜がすべての仏と仏法を蔵した存在であるというのと同じです。そのため、般若仏母という名を持っているのです。つまり、般若のコをそのまま仏様にした方なのです。こうなるともう、般若仏母を本尊にして、修法しゅほう
すれば、般若波羅蜜の修行と功徳に優劣はないのです。 「般若波羅蜜多による」 というのは、つまり、般若波羅蜜を信仰して口に唱え、念じ、親しむことにほかなりません。このこの信仰というのが、最も大切な部分です。膨大ぼうだい
な量の 『大般若経』 すべてを見たわけではありませんが、般若波羅蜜は、六波羅蜜のうちで唯一、明確な修行法というものが示されていないのです。つまり、般若波羅蜜への信仰が、そのまま般若波羅蜜と考えてよいのではないかと思います。 考えてみれば、この六波羅蜜のうち般若波羅蜜以外は、いずれの宗教でも行われる可能性があるものです。大乗仏教の特徴を求めるなら、何より先ず、般若波羅蜜への信仰をあげるべきでしょう。さらに踏み込めば、仏智をゴールとしてとらえるのではなく、生き生きとした働きとしてとらえようというのが、大乗仏教のいう般若波羅蜜多なのです。 |
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