依
般はん 若にゃ
波は 羅ら
蜜みつ 多た
故こ
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(書き下し) | 般若波羅蜜多によるが故ゆえ
に | (現代語訳) | 般若波羅蜜多の功徳くどく
により |
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『般若波羅蜜多による』
とは、般若波羅蜜を信仰して唱え、念じ、親しむことである。 この般若波羅密には、すべての功徳が秘められており、様々な利益りやく
があるという。 |
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般若はんにゃ
波羅はら 密みつ
(般若波羅蜜多) は、前に申しましたように大乗だいじょう
仏教の六波羅蜜、つまり布施ふせ
波羅密・持戒じかい 波羅密・忍辱にんいく
波羅密・精進しょうじん 波羅密・禅定ぜんじょう
波羅密・般若波羅密という六つの行の最後をしめる行法でありますが、具体的にどうしたらよいのかは、 『般若心経はんにゃしんぎょう
』 はもとより、その大本である 『大般若経』 にもあまり書かれていないようで寸。禅の公案ではありませんが、般若波羅密が出来てくれば、もう悟りの門に足が入ったというようなものであります。 般若波羅密の般若は智慧ちえ
、波羅蜜多は彼岸へ至るという意味ですから、いずれも悟さと
りの境涯きょうがい そのものを表す言葉です。つまり
「般若波羅蜜多によるが故ゆえ
に」 とは、 「悟りの境涯によるが故に」 という意味になります。 では、どうすれば般若波羅密の修行が出来るようになるのかといえば、六波羅蜜の順序から考えれば、五番目の禅定波羅密が出来ていることが前提となります。禅定波羅密が満足に出来るためには、その前の忍辱波羅密や精進波羅密による修行が大切ということになりますし、さらにそれ以前に持戒波羅密でおのれの生活を清らかに整え、布施波羅密で世間を利益りやく
することを専もっぱ らとせよということになります。 前の五波羅密がバランスよく修行できて来れば、おのずから般若波羅密の修行に至ることが出来るのだと思いますが、仏典ではたとえ五波羅密があっても、最後の般若波羅密がなければ悟りに至ることは出来ないと言っております。 ここでいささか変に思うのは、だんだん話を聞いていくと、般若波羅密自体が悟りなのではないか、それなのにその悟りをもって悟りに近づくような、何か矛盾したような妙な感じを受けないかということです。確かにそんな感じもします。しかしこれは、同じ悟りでもその深浅があるからではないかと考えられます。いずれにしても、われわれ凡夫ぼんぷ
がおいそれと到達できる境涯ではありません。お釈迦しゃか
様の悟りはいうの及ばず、般若波羅密すらそう簡単に修行出来るものではないのです。そこで何かより簡単な、とまではいわないまでも、あるいは宗教的天才でなくとも、この般若波羅密という境涯の素晴らしさをどうにか体得できる方法はないかということになります。 |