私は天松居士のお弟子の故林
天朗てんろう 氏より、天松居士の教えの一端を受けましたが、
「掃除をしたら箒ほうき は片づけないと、今度はそれがゴミになる」
と言われました。仏法をやたらふりかざすのは、それが分からぬ者のやることだと教わったのです。また、 「味噌みそ
の味噌くさきは上味噌にあらず」 という言葉があります。何事によらず、分かっていない人間ほど言葉や概念にとらわれ、それをふりかざすというのは、よくあることです。 菩薩に話を戻しますが、教理的には同じ菩薩でも、観音、弥勒みろく
、文殊もんじゅ のような大菩薩はすでに仏でありながら、あえて菩薩の姿でわれわれの教化きょうげ
のために働かれるといいます。 大乗仏教は 「菩薩道」 と言われるくらいで、中心は菩薩であります。大乗仏教では、如来にょらい
すなわち悟りを開いた仏様は、悟りというゴールでただ待っているのではなく、菩薩となってこの世に出て来られ、われわれを応援し、導く存在となって下さっています。
「涅槃ねはん 」 と呼ばれる絶対の悟りに入られることもなく、常にわれわれとともに歩む存在です。 ここでは本来の仏教の目的だった悟りや涅槃よりも、
「衆生しゅじょう 救済きゅうさい
」 に重きが置かれてくるのです。なぜなら大乗仏教では、阿羅漢あらかん
のように個々の悟りを求めるのではなく、皆が等しく悟りのゴールに到達しなくてはならないと考えているからなのです。 ですから 『般若心経』 の主役は、語り部のお釈迦しゃか
様でも聞き手の舎利弗しゃりほつ
でもなく、観自在菩薩なのです。盤珪ばんけい
禅師ぜんじ は、この観自在菩薩をわれわれ自身のことと言っております。そして、まさにわれわれの菩薩の代表として、観自在菩薩のお悟りの内容が公開されたのが
『般若心経』 ですから、このお経の悟りには、努力すれば行く着く可能性は決して低くはないのだといってよろしいかと思います。われわれ菩薩道を行く者の悟りならばこそ、老死ろうし
もなく、老死がなくなることもなく、ということなのでしょう。 菩提薩?とは、必ずしも観音様のような大菩薩のことばかりでなく、いま 『般若心経』 を勉強しようとしているわれわれもまた、菩薩であることに違いはありません。 |
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