菩提
薩?さった とは、観かん
自在じざい 菩薩ぼさつ
のところで説明しました菩薩のことです。 「悟さと
りを求める人」 と訳されます。また 「覚かく
有う 情じょう
」 ともいいます。この覚有情とうのは、やはり悟りを求める人と訳されるのですが、面白いのは昭和の時代、『金剛経こんぎょうきょう
』 の布教に努めた在家の仏教者として知られた浜地はまち
天松てんしょう 居士こじ
は、これを 「悟りてなお情なさけ
けあり」 とも読んだと言います。 『金剛経』 は、正しくは 『金剛般若経はんにゃきょう
』 といわれ、般若経典としては 『般若心経はんにゃしんぎょう
』 の次によく読まれるお経です。やはり般若経ですから 『般若心経』 と共通の真理を説くお経です。 『金剛経』 には、とても有名な言いまわしがあります。
「○○は○○にあらず、これを○○という」 というのがそれです。これに菩薩をあてはめると、 「菩薩は菩薩にあらず、これを菩薩という」 となります。この○○にあたる部分に
「悟り」 と入れても 「仏」 と入れても、はたまた 「般若」 と入れても同じことで、何にでもこの言いまわしが使われます。つまり、 「○○は○○だ」 という概念を消し去ると、本当の○○の姿が生き生きと見えてくるというのです。 ですから、菩薩とは大乗だいじょう
仏教の修行者のこと、などという固定観念は、 一度頭から完全に消し去らないと駄目なのです。そうでなければ本当の菩薩にはなれないのです。ですが、それを頭から消し去るにはまた、一応の意味を知る必要があります。否定はしたものの、一体何を否定したのか分からないというのでは、本当の否定になりません。枠をつくっておいて、さっと外す。たとえば羊羹を作るときのように、一度型に流し込み、固まったらそれを取り去る。そうすると、きれいな形になっています。型にはめられたままではなくても、きれいな
「かたち」 になっているのです。これが 『金剛経』 のやり方です。型にはまらない自由さと、それでいて滅多なことでは型が崩れない堅固さとが両立できてきます。 ですから
『金剛経』 では、ついには 「法すらなお捨つるねし」 とさえ言います。仏法といえども、悟りの岸に行く着くための筏にすぎないのであり、岸に着いたらもう乗らなくてもいい、無用だというのです。 |