無
智ち 亦やく
無む 得とく
以い 無む
所しょ 得とく
故こ |
(書き下し) | 智なく、また得もない。得るところなきを以もつ
っての故ゆえ に | (現代語訳) | 知るべき智慧ちえ
もなく、得るべきもののない。得るべき何ものもなきがうえに |
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われわれは仏性を宿した存在であり、本来は、だれもが悟りの境涯にある。 仏の智慧は、われわれの内にあるのだから、得るべきものは何もないのである。 |
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「無智」
とは、知るべき智のないことを言います。ここでいう智とは、お釈迦しゃか
様の説かれた真理、この世界の理ことわり
、悟さと りの境地、つまり智慧ちえ
のことです。知るべき智がないということは、自分の外に智慧を求める必要がないということです。つまり、本来は誰もがすでに悟りの境涯きょうがい
にあるのですが、ただそのことに気づいていないだけ、とというのがこの言葉の本意です。同様に 「無む
得とく 」 とは、得るべき何ものもないことです。 知るべきものも得るべきものもないのだ、というのはなぜなのか。それは、本来人間というものは
「無む 所しょ
得とく 」 だからだというのです。無所得とは仏教用語で、得るべきものは何もないということです。そういうと
「では何のために仏道修行をするの?」 と思われるでしょう。もっともな疑問であると思います。その答えは、 「無所得であることを知るため」 なのです。 前に仏性ぶっしょう
の話をしましたね、仏性とは、すでにわれわれの奥に悟りの智慧を持った仏と同質のものが存在するということです。ですから苦心惨憺くしんさんたん
して仏を求めなくても、極端に言えば、われわれはすべて仏様なのです。われわればかりか、犬も猫も蛙かえる
もメダカも、そういう意味では仏様なのです。すべてが仏様だとしたらどうでしょう。 「すべてが仏様だと言われたら、逆にありがたみがわからないじゃないか」 と言う方もいるでしょう。 しかし、仏様の
「ありがたさ」 とは、そのように何かと比較して 「ありがたい」 とか 「ありがたくない」 というようなものではないのです。存在自体がありがたい。今こうしてある自分がありがたい。私をとりまく環境のすべてがありがたい。ありがたくないものなど何もない、というのが本当の仏様のありがたさなのです。 しかし、仏様の
「ありがたさ」 とは、そのように何かと比較して 「ありがたい」 とか 「ありがたくない」 というようなものではないのです。存在自体がありがたい。今こういている自分がありがたい。私をとりまく環境のすべてがありがたい。ありがたくないものなど何もない、というのが本当の仏様のありがたさなのです。 |