2017/08/12 (土) | なんだかさっぱり分からないと思う方のために、もうひとつ例をあげて説明しましょう。 密教のお作法をしますと、普供
養偈ようげ というものを唱えます。これはお供物くもつ
をさしあげた後で唱えるものですが 「我、今もろもろの供具を献じ奉る。いちいちの諸塵しょじん
は皆みな 実相じっそう
なり。実相は法界ほつかい の海に周遍しゅうへん
す。法界はすなわちこれ諸もろもろ
の妙たえ なる供そな
えものなり。自他の四法身しほうじん
を供養す。三世さんぜ の常恒じょうこう
において普あまね く供養す。受けずして受け、哀れみて納受したまえ。自他をして秘密蔵に安住せしめん」
というものです。 この普供養偈は、およそ次のような意味です。すべては仏の内にある。したがって供物をあげるあげないのは、本当は問題ではない。この世界すべてが、本当にすばらしい宝のような供物なのだ。どうかこの供物をあえて受け、われわれを秘密の仏の世界へと入らしめ給え・・・・・。 つまりこれは、子供さんが庭でお花を摘つ
んで、お母様にさし上げる行為に似ています。 「お母さん、お花をあげる」 と言いますが、そのお花はお母様のお庭の花なのです。それをわざわざあげるというのは微笑ましいかぎりですが、私たちが仏様を供養するというのも、同じことなのです。あげる供物も本来、仏の内から一歩も出ていない。あげている私たちもまた、仏の内から一歩も出てはいないのです。 よく皆さんから、
「お供物は何をいつあげるのですか」 「お米は炊いたのがよいか、炊かなくてもよいか」 とか、お供物についての質問を受けますが、要は心をさし上げるのです。たとえば、仏様にナマグサであるお魚やお肉の料理はさしあげません。正しくは、お仏壇にはお酒もあげてはならないことになっています。しかし、仮にそういうことを知らずにあげたらどうかというと、別段、禍わざわ
があるわけではありません。ただ、そういうものではない、そうしてはおかしいというだけのことなのです。 ちなみに、故人が好きだったというので仏壇にお酒をさし上げる人がありますが、お葬式では故人は戒かい
をいただき、仏弟子になってお戒名かいみょう
をいただいています。したがって理屈の上では、仏教の戒律により、お酒は飲めません。生きていれば、お坊さんでさえお酒を飲む人がいますが、もう亡くなってまで飲まなくても大丈夫なのです。 話を戻しますが、われわれは仏の内に包まれ、また仏を内に蔵しているというこの考えは、
如来蔵にょうらいぞう 思想」
といいます。この考えによれば、すでに仏の智慧は、求めずしてわれわれの内にあるなずなのです。したがって、知るべきもの、得るべきものというのは、本来ないはずです。これは、とてもすばらしい教えだと思います。 近年、如来蔵思想は
「外道げどう 」 つまり仏教の説としておかしいという学説もあるのだとうかがいます。ただ私に限りましては、学問的なことはともかく、如来蔵思想が大乗仏教の最高峰にある思想だと信じて疑いません。 |
| 『実践
般若心経入門』 著:羽田 守快 ヨリ | Next |
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