〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part X-U』 〜 〜
== 『般 若 心 経』==

2017/08/07 (月) 

やく ろう じん
(書き下し)また老死の尽きることもなく
(現代語訳)また、生きては死んでいくことがなくなることもない。
肉体を持ってこの世に生かされている以上、その生は十二因縁いんねん呪縛じゅばく からのが れられない。しかし、そうした制約の中に生きるからこそ、何かを学び取ることが出来るのである。
老死ろうし の尽きることもなく」 とは、たとえ無明むみょう照見しょうけん してさと ったからといって、現実には苦悩の根源とも言うべき十二因縁の呪縛から解き放たれた人生があるわけもなく、因果の法則を無視出来るものではないというのです。
禅宗の公案に 「百丈ひゃくじょう 野狐やこ 」 という話があります。これは 「一日 さざれば、一日 らわず」 という成句で有名な中国の禅者ぜんしゃ百丈ひょくじょう 懐海えかい (749〜814年) にまつわる話です。
ある時禅師が説法をしていると、不思議な僧が訪れました。その僧の様子は、常人のものとは思われませんでした。聞けば、 「悟りの境地に至れば因果の制約は受けない」 と説いたために、彼はその後百回も狐に生まれ変わり、いまだに苦労している、この苦しみから脱するために、ありがたい言葉を禅師からたまわりたい、と言うのです。そこで禅師は、この僧に 「不昧ふまい 因果いんが 」 とひとこと、つまり 「因果はくらますことが出来ない」 と言ってやりました。そののち、裏山へ行きますと、とし りた狐の死体が見つかったと言います。僧は禅師の教えを受けて、めでたく狐の身より脱することが出来たのです。
悟れば因果の法則から自由になる、ということのみが真理であると思い込んだからこそ、この僧は百度も狐となったのです。人間として、肉体を持って生かされている以上、因果の制約から完全に自由な存在になれはしないのです。人はそうした制約の中に生き、苦しみを感じられるからこそ、厳しい修行をして、何かを学び取ることが出来るのです。因果の法則を離れることも因果の制約に生きることも、ともに表裏一体の真理なのです。
つまり人間は、この肉体を持ったままでは、観音かんのん 様や地蔵じぞう 様のような神通じんずう 自在の存在にはなり得ないのです。考えれみれば、当のお釈迦しゃか 様も八十歳で亡くなりました。肉体を持っている以上は、人としての存在は超えられません。
世の中は広いもので 「因縁切り」 のご祈祷きとう というものをしているところがありますね。悪い因縁を切るというのです。しかし、 「不昧因果」 である以上、すでにつくってしまった悪い因が、悪い果を生むのは道理ですから、どうにもなりません。つまり 「因縁切り」 とは、原理から言えば本当は切るのではなく、よい因縁や縁を新たにそこに加えてあげるということなのです。お経を読んだり、ご真言しんごん を唱えたるすることもそうです。
ただ、悪い因縁に負けぬようよい因縁をつくったり、また悪い因縁があっても、そのほかのよい因縁をいかして、多くを学ぶということも出来ると思います。このように考える場合、悪縁のことを 「逆縁ぎゃくえん 」 といいます。逆縁とは、一見すると悪い縁なのだけれども、結果的にそれが仏縁にもなり得るということです。
たとえば 「仏伝物語」 には、お釈迦様の怨敵おんてき として、いとこの提婆だいば 達多だった という人が出てきます。
一般に、この人は大悪人のように言われていますが、実際はお釈迦様の教団にあって、より厳しい修行を主張して、周囲のお弟子たちと相容れなかった人のようです。物語によれば、お釈迦様のコをねた んでたけ り狂う象をけしかけ、かえって自分が踏まれてしまったとか、生きながら地獄へ ちたとももうします。
しかし 『法華経ほけきょう 』 では、この提婆達多の前世はお釈迦様のお師匠様であり、いわばお釈迦様を鍛え励ますために、今世ではわざわざ怨敵となったというのです。ですから彼は、天王如来てんのうにょらい という仏になるとされているのです。こういうケースを逆縁といいます。
それは神話ではないか、と考えるお方もあるでしょう。では、身近なことで考えてみて下さい。
会社にとても厳しい上司がいたとします。この人は何かに付けてうるさく言い本当に嫌いだ、怨敵だなどと思っていましたら、ある時自分の部署が変わり、そこでは自分の仕事ぶりが大変に高く評価されたとしたら、どうでしょう。考えてみれば、あの鬼のような上司が鍛えてくれたからこそ、評価につながったのです。
その上司は、そういうつもりで鍛えたのではなく、ただ意地悪なだけだったのではにか、という反論もあるかとは思いますが、実は仏教では、そんなことはあまり気にしないのです。 「ああ、あの鬼上司のおかげだな」 と考えれば、意地悪も変じて功徳くどく になるというのです。もっとも、上司のいじめはいじめ、自分への評価は評価と、両者を別々に考えることも出来ますね。どう考えるかは、その人しだいですが、こういう点について仏教は 「終りよければ結果よし」 という考え方で昇華してしまうという、お気楽なところがあります。
『実践 般若心経入門』 著:羽田 守快 ヨリ
Next