亦
無む 無む
明みょう 尽じん
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(書き下し) | また無明が尽くることもなく | (現代語訳) | 同時に無明が尽きることすらない。 |
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迷いの根本である無明や煩悩ぼんのう
は、本来存在せず、なくなることもない。 しかしながら、煩悩があるからこそ、われわれは悟さと
りへの修行を積むことができる。 |
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「春霞はるがすみ
/ 雲井くもい はるかに /
ながむれば / もとより空に / 有明ありあけ
の月」 という古歌があります。 これは、煩悩ぼんのう
と悟さと りの関係を説明するのに使われていますが、霞や雲におおわれていても、そこにはもともと悟りの本性である
「仏性ぶっしょう 」 があるのだという意味です。 ここで新しい言葉が出てまいります。
「仏性」 とは、読んで字のごとく仏としての本性です。 「悟り」 といいますと、一生懸命に修行してついに悟るという、仏道のゴールのようなイメージですが、なんと悟りの心は、もともとわれわれに備わっているのだというのが、この
「仏性」 という考えです。 この考え方は、大乗だいじょう
仏教独特のものです。日本でこの考えを最初に主張したのは伝教大師でんぎょうだいし
最澄でさいちょう 上人です。最澄はこの考えをもとに一切いっさい
衆生しゅじょう 、つまりあらゆる生きものは仏になれる本性を宿していると主張しました。当時の日本には
「南都なんと 六宗ろくしゅう
」 という仏教学派があり、中でも力のあった法相宗ほっそうしゅう
のコ一とくいち (生没年不詳)
は、この考え方を厳しく非難しました。法相宗は、大乗仏教の立場からは 「権大乗ごんだいじょう
」 といわれ、その教えはちょうど上座部じょうざぶ
と大乗の中間にあります。 衆生しゅじょう
には、仏になれる者、菩薩ぼさつ
になれる者、菩薩か阿羅漢あらかん
になれる者、阿羅漢になれる者、どれにもなれない者の五種類があるというのです。これを 「五性ごしょう
格別かくべつ 」 といいます。今でも法相宗はこうした考え方を厳格に継承しているようです。 しかし考えてみれば、人間一代のうちで仏になったとか、大菩薩になったとかいう話はあまり聞きません。人は一代かぎりで死ねばおしまいというのが本当なら、お釈迦しゃか
様のように悟った人など誰もいないことになりますから、コ一の言うことが正しいのは、論より証拠ということになりましょう。 しかし、最澄もコ一も、もちろんそんな次元でものを言っているのではないのです。大体インドでは、人が仏になるには三さん
阿あ 僧そう
祗ぎ 劫こう
という、とてつもない時間がかかると言われて来ました。 阿僧祗というのは、億や兆を超えたきわめて大きい数です。そして劫は、梵語でカルパというのですが、これもとてつもなく長い時間のことです。たとえば四方が一由旬ゆじゅん
(約7キロ) ある大岩に、百年に一度天人が下りて来て、衣がその岩をかすったと考え、最終的にその岩が摩滅してもまだ、一カルパが終わらないと言うのです。とても人間一代や二代の話ではありません。 そんなにかかるならもうどうでもいいや、と言うのがわれわれ現代人の感覚ですが、当時の人は、真剣にこうしたことを議論しました。しかし最澄は、そんな長い時間をかけて仏になるのならないのという前に、すでに仏性はわれわれの内にあるのだと言うのです。この故に
「発心ほっしん すれば定んで至る」
とも言いますし、 「衆生仏戒ぶつかい
を受けなばすでに諸仏の位に入る」 とも言うのです。 発心、つまり仏になりたいと切望して仏道を志したり、正式に仏教徒となるために仏の戒えお受けたなら、その人は仏性の起動スイッチがはいったということになるのです。 いかに仏性を備えていても、発心がなければそれは起動しません。たとえば動物は、仏性がありながら、そのスイッチが起動していない状態ということになります。また、仏性のスイッチが入ったからといって、ただちに迷いの雲がなくなるわけではないのです。
「また無明が尽きることもない」 ということは、これを指して言うのであります。 密教には 「煩悩ぼんのう
即そく 菩提ぼだい
」 という言葉がありますが、これは煩悩も菩提も同じという意味ではありません。言葉だけを聞くとそのように誤解されて、酒を飲んだくれたり下品な歓楽にふけるのも仏の境地と同じだなどと思われがちな言葉ですが、本当の意味は、悟りを求める菩提心を持った人には、煩悩もすべて仏道への縁になるのだということです。菩提心を持つ人には、煩悩の雲も悟りへの道標であり、煩悩であってまた煩悩でなくなるのです。 たとえば色欲というものは、仏道修行からいえば、第一の敵とされる煩悩ですが、これがまったくなくなったとしたら、どうでしょう。人類は絶滅するほかありません。煩悩あらなこそ悟りへの修行を積むことが出来、われわれの未来もあるというものではありませんか。 |