無明
というのは、迷いの根本のことです。ですから、これを根本無明とも申します。仏教ではこの迷いというものを、いかに退治するかが大きな課題でありましや。なぜなら、無明が無くならなければ、悟さと
りはあり得ないと考えたからです。 無明は、煩悩ぼんのう
とほとんど同じ意味ですが、イメージとしては煩悩よりもっと根源的な、いわば人間についてまわるものといえます。煩悩は、無明の具体的な働きです。無明そのものは、積極的な存在ではありません。そこに真理を知る智慧ちえ
がなければ、どこまでいっても無明という状態です。たとえば、灯火のない部屋は真っ暗ですが、闇が積極的な存在なのではありません。そこに光がないだけです。これと同じく、無明は智慧の光がない状況とお考え下さい。 さて、無明の具体的な働きである煩悩は、貧とん
、瞋じん 、痴ち
に代表されます。これを 「三毒」 といいます。貧はむさぼりです。瞋は怒り、痴は愚かさです。これを根本煩悩とし、加えて様々な隋ずい
煩悩と呼ばれる小さな煩悩が発生することになっています。 古来、仏道修行者にとっては、いかにこの煩悩に打ち克つかが大きな課題でした。極端な話、上座部じょうざぶ
仏教などでは欲という欲は悪であると考えて、三毒のほかにもあらゆる欲を否定しました。 音楽や芝居を見たり、おしゃれをするのもとんでもないこととされ、また寝心地のよいところに寝てもいけないとされました。持ち物は
「三衣一鉢さんねいっぱつ 」
、つまり袈裟けさ (衣)
三枚と鉢一つというように規定されました。さらにこの袈裟というのも、糞掃衣ふんぞうえ
といって、ゴミとして捨てられた衣服や、死者がまとっていた古着などの切れ端を集めて、縫ぬ
い合わせたものに限られていました。もちろん、ほかに所有財産などは一切ありません。このようにして欲望を徹底的に排除したのです。 これは、二度とこの世に転生しないための大切な心構えだったのです。少しでも欲を持てば、またこの世に生まれて来ます。上座部仏教の目的は、二度と生まれて来ないように再生の因となるすべての欲望を滅ぼしてしまい
「灰身けしん 滅智めっち
」 に至ることにありました。修行の到達点にも様々な段階があり、最大七度、人界と天界との間を生まれ変われば解脱げだつ
して、輪廻転生りんねてんしょう
の呪縛じゅばく から解き放たれる
「須陀しゅだ ?果おんか
」 、あと一度だけ人間に生まれる 「斯陀しだ
含果ごんか 」 、もう人界には生を享けない
「阿那あな 含果ごんか
」 、ただちに灰身滅智に入れる 「阿羅あら
漢果かんか 」 などがありました。完全な消滅を願う彼らは、自らの存在を憎んでいると言っても過言ではありません。 私の友人がタイへ行きまして、現代の上座部の修行ぶりに大変感心して帰国し、
「上座部のお坊さんは、厳しい戒律をちゃんと守って修行している。とても立派だ」 と言っておりました。時代と合わないなどの要因で、今は多少減ったとはいえ、上座部の戒律は二百数十戒もあります。 しかし、たくさんの厳しい戒律を守ってまで自己の完全な消滅を願う上座部仏教と、日本の大乗だいじょう
仏教が目指すものとは、根本的に違うのです。 では大乗仏教は、解脱ということについて、どんな特徴を持っているのでしょうか。まず大乗仏教では、解脱するために、生命として生まれることを回避する必要はありません。真に解脱すれば
「普現ふげん 色身しきしん
三昧ざんまい 」 という神通力じんずうりき
によって、瞬時にどこへでも出現出来るとされています。 また、どこへも出現しない間は 「無住所むじゅうしょ
涅槃ねはん 」 といいまして、法界
(全宇宙) と同体の存在になっているのです。つまり、環境がどうであれその悪影響を受けないのですから、どこへ転生しても関係ないということになります。 また、大菩薩だいぼさつ
たちはあえて一抹いちまつ の無明を残して仏位に至らないことによって、輪廻の因いん
を残しているともいいます。実は、彼らは永遠に菩薩として、この世の輪廻より出ないで人々の救済活動をするのだというのです。 こうしてみると、無明といってもあえてそれをいとわない大乗仏教の一面が見えてきます。これがさらに密教になりますと
「煩悩ぼんのう 即そく
菩提ぼだい 」 という思想が出てまいります。煩悩の姿がそのまま仏の心、すなわち悟りの境涯きょうがい
ということです。これについてはまた別にお話します。 |