〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part X-U』 〜 〜
== 『般 若 心 経』==

2017/07/31 (月) 

こんなお話があります。
ある時、 達磨だるま 大師のもとへ、深い悩みを持った男が訪ねて来ました。 「大師様、私はある悩みに日夜責めさいなまれています。どうか救いの道をお示しください」 と、男は懇願しました。
話を聞いていた達磨大師は 「よく分かった。ではその悩みをここへ出しなさい」と言われたそうです。男はそれでハッとさと りました。悩みなど、もともと実体のあるものではなかった。悩めば悩みであるし、悩まなければ、そんなものは存在しないのではないか、と。悩みとはおおむねそういうものであります。
また、これは現代の話だそうですが、やはり山奥の老師の所に、がん で余命いくばくもない人が会いに行ったと言います。常識ではもう助かりません。でも、諦められない。つらい。そんなどうにもならない心で行かれたそうです。いざ会って事情を話すと、その老師はおもむりに 「あなた一人の命くらいどうでもいいじゃないか」 と言ったそうです。それで 「ア」 と、その人は悟ったと言います。これはそう言い切った老師も偉いのですが、悟ったその人もかなりのものです。ただ者ではありません。そういう人だと見てとって、老師もそう言ったのでしょう。
普通に考えれば、死のさし迫った人に対して 「あなた一人の命くらい」 とは言えません。宗教家の看板など背負っておれば、余計にそうでしょう。それをそう言い切ったので、迷いは一刀両断されたのです。
眼耳鼻舌身意に話を戻しますが、 『法華経ほけきょう 』 の 「法師ほっし 功徳くどく ほん 」 には 「法華経の修行者は八百の眼、千二百の耳、八百の鼻、千二百の舌、八百の身、千二百の意の得る」 という言葉があります。
一方 『般若心経はんにゃしんぎょう 』 では、眼耳鼻是身意もなく、色声香味触法もないといいます。まったく対照的ですが、実は言っていることは同じなのです。
主観を離れれば、自分の眼耳鼻舌身意から離れる代わりに、あらゆる人の立場に立ってものごとを見、聞き、感じることが出来ます。それが何百何千の眼や鼻を得ることに通じます。
主観を離れるといっても、しょせんは客観的立場という、名ばかりの主観なのではないかと思われる方もいらっしゃるでしょう。ただ、ここで言っているのは、客観的に見たり考えたりしなさいよいうようなことではありません。自然に主観を離れ、いわば絶対的立場に立ってものを感じる世界のことを言っているのです。ですから本当は、 『般若心経』 の言わんとするところは主観でも客観でもないのです。
先ほどの老師の 「あなた一人の命くらいどうでもいい」 という言葉は、もちろん他人事だから知らないというような、低いレベルの発言ではありません。だからといって、相手の身になって考えるというようなものでもありません。もし相手の身になってしまえば、やはり先ほどの発言も出てこないでしょう。当人は 「死にたくないのに、もうすぐ死ななければならない」 という矛盾の中で、もがき苦しんでいるわけですから、真にその人の立場になれば、一緒になって苦しむほかはありません。
おそらくその方のご家族は、そのようであったことでしょう。他人でも情け深い方やまじめな宗教者にこういう方がありますが、これも度を越すと、情に溺れてかん (智慧ちえ によりものごとを正しく る能力) を失います。ですから、真に仏法の眼の開けた人は、優しいばかりの人物ではありません。ときには怖いような感じのする人さえあります。またある時には、その言動は非情のようにさえ映るものです。
また仏教では、その人の機根きこん (能力や許容範囲) を見て指導することが大切とされています。
ですから、AさんとBさんの事情が同じでも、Aさんに対する指導がそのままBさんに通用するというものでもなく、その逆でもありません。おそらくご家族が、かの老師の発言をそばで聞いていたらカンカンに怒ったかも知れませんが、当のご本人は悟りを得られました。これが生きた仏教というものの働きであります。
『実践 般若心経入門』 著:羽田 守快 ヨリ
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