もっと分かりやすい例をあげましょう。たとえば地球には始まりがあります。地球はどうして出来たのかはよくわかりませんが、一説に宇宙の塵
が太陽のまわりを巡っているうちにだんだんと集まり、固まったのだと言います。ここをスタートとすれば、確かに始まりはありますが、それ以前の塵の状態がなければ、その始まりもありません。同時に地球の始まりは、そうした塵のおしまいであったはずです。このように、物事を特定の枠に入れれば確かに始まりと終りがあるのですが、宇宙の営み自体には、始まりも終りもありません。 キリスト教では、造物主という存在を想定しますが、仏教に言わせれば、本当につくったものなど何もないのです。みんな自然にあるものが変化した姿です。科学文明といえど、自然にあるものを使わず、無から有を生み出すことは出来ないのです。 こうしてみますと、すべては時間的、空間的に分かち難く存在していることに気がつかれるのではないでしょうか。人間の胎児が成長していくありさまには、生命五十億年の歴史が見てとれると言います。一つの受精卵が細胞分裂して原生動物のようになり、次に魚のようになり、両生類、爬虫はちゅう
類、哺乳ほにゅう 類の姿へと変化していきます。 五十億年前に原生動物が生まれてこなければ、今のわれわれも存在しなかったのです。生命には、それがちゃんと記憶されているのです。宇宙を一つとみなせば、そこには様々に変化しながらも、同時に実は少しも減りも増えもしないし、生まれることも滅ぶこともない、まして浄いとか汚ないということはおよそ関係のない、実相のみが厳然と存在しています。これを
『法華経ほけきょう 』 でいいますと、
「諸法しょほう 実相じっそう
」 ということです。諸法実相というとよく 「宇宙のすべての存在は真理である」 などと説明されるのですが、そもそもこの肝心の真理というものがいかなるものかが分からないのですから、これでは説明になっていません。 諸法実相とは、分かりやすく言えば、すべてが分かち難く等価値に存在するということです。彼あって我ありという世界です。 昔、ある修行者が川で野菜を洗っていたら、うっかり葉を一枚流してしまったと言います。修行者は、急いでそれを追いました。しかし川の流れは早く、かなり下った下流で、ようやく野菜の切れ端を拾うことが出来ました。彼はこの時思わず、これを伏し拝んだというのです。 言うまでもないことですが、この話しの要点は、ものを大切にせよ、などという単純な戒めなどではありません。悟さと
りには、人それぞれのタイミングがあります。この話に登場する修行者は、流れて行った野菜の切れ端に追いついたまさにその時、野菜の切れ端が自分や宇宙と等価値の輝きを宿していると悟ったのに違いないのです。ですから拝んだのです。拝まずにはいられなかったと言っていいでしょう。 |
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