諸法が空
であるとは、いかなることなのかが述べられています。それは生ぜず滅せず、垢あか
つかず浄きよ かならず、増えず減らずだというのです。ここまでの空の説明では、ものごとは常に移ろいゆくもの、つまり
「諸行無常しょぎょうむじょう
」 だったはずなのに、ここではまったく逆の説明がなされています。 実はここでは、前の色即是空しきそくぜくう
よりさらに一段上がった所から諸法を見ているのです。 個々のものを見れば、諸行無常は明白の理であります。どんな美人も歳をとれば容色が衰え、咲いた花ならば散るのは道理です。これはなるほど分かりますが、ものごとは少しも減らないし増えもしない、きれいにも汚きた
なくもなりはしない、生まれもしなければ滅びもしない、などと言われても、通常の感覚ではとうてい理解出来ないことです。しかし、これこそが 『般若心経はんにゃしんぎょう
』 で語られる大乗だいじょう
仏教のとらえる空観くうかん なのです。 ここまで来ますとすでに、ただ空を理論だけで分析する析空観しゃっくうかん
などでは、太刀打ち出来ない世界です。というより、考えたり理屈をこねたりしても、これは分かりません。悟りの世界に入ってはじめて分かることであります。ですから、とうてい私ごとき者がうんぬんするようなものではないのですが、あえて言うならば、これは個々のものごとへの視線を脱して、すでに宇宙的な視野に立ったものの見方なのだということが出来るかも知れません。宇宙には、エネルギー不変の法則というものがあります。たとえば掌てのひら
をパンと打ち合わせたなら、その運動エネルギーは物に伝わって、色々な形に変化しながらもなお、なくならないのだといいます。形としてはもうないのですが、エネルギーとしては残存していくわけです。 |