前に述べた色
即そく 是ぜ
空くう の世界は、よく 「諸行しょぎょう
無常むじょう」 という言葉に置き換えられます。これに対して、次の無む
受じゅ 想そう
行ぎょう 識しき
は 「諸法しょほう 無我むが」
ということを表現したものです。受とは苦楽や痛みなどを感じる感受作用、想とは心に思い浮かべる働き、行とは意志をともなう心の動き、識とはものごとを認識する働きで、これはつまり、われわれの心の作用や働きのことです。 われわれの心とは、こうした受想行識などの作用が絡み合ったものにすぎないのであって、心の本質というものが確固として存在しているとは考えないのが仏教の特徴です。 心の本質と言いますと、皆さんはどのように思われるでしょう。魂あるいは霊魂などという言葉を思い起こす方も多いのではないでしょうか。ならば仏教では霊魂の存在は説かれているのでしょうか。 一般に、仏教は魂の存在を認めない、と言われます。実際、お釈迦しゃか
様は魂の存在を否定されていると解釈する仏教学者もいます。確かに仏典の中に、霊魂という言葉は出て来ません。しかし 『地蔵じぞう
菩薩ぼさつ 本願経ほんがんきょう』
には 「魂神こんしん」 という言葉があります。魂神とは神様のことではなく、まさしく霊魂のことです。また、
『観かん 普賢ふげん
菩薩ぼさつ 行法経ぎょうほうきょう』
では、これを神識しんしき とも言っています。 さらに仏教では
「輪廻りんね 転生てんしょう」
といって、生命が生まれ変わり死に変わりすることが前提となっています。ただ、この時生まれ変わり死に変わりするものは、われわれの 「識しき」
といわれる部分だと言います。ですからこの魂神も、実際は識のことと考えるべきです。識は、ものというより作用です。とりわけ阿頼あら
耶識やしき といわる心の深い領域では、日々のわれわれの行為が次の生への種として貯えられています。 |