ひとつ前の第五節で、色
不ふ 異い
空い 、空不ふ
異い 色しき
は、いわば上座部じょうざぶ 仏教にも大乗だいじょう
仏教にも共通の教えだということを申し上げました。続く第六節では、さらに空いについての深い真理が述べられます。それ
「色即是空 空即是色」 です。 「色即是空」 という言葉は、あまりにも有名ですから、 『般若心経はんにゃしんぎょう
』 を知らなくても、この言葉は聞いたことがあるという方は少なくないでしょう。この 「空」 というのは、大乗仏教的に言いますと 「実体がないこと」 というのが一応の答えとなっています。 すべての物質には実体がない。これは理論や言葉だけで空を解析する析空観しゃっくうがん
的な解釈でも、何となく分からないでもないですが、しかし 「空即是色」 となると、析空観ではちょっと追いつきません。つまり、空が顕現けんげん
して色しき となっているということですから、単に分析的な要因として空というのではなく、ここに存在の根本原理としての空が立ち現れて来るのです。
上座部じょうざぶ 仏教では、空は存在の実体を表すものでした。どんなに堅固に見えるものも、実は実体のない虚むな
しい存在であるというのがその主張ですが、ここでは空は一転して、万物の根幹として積極的に万物の裏に展開しているというのです。ここのところが実際、 『般若心経』
の最も難しい部分です。 よくお説教などの場で 『般若心経』 のお話が出てまいりますが、学問的にきっちりやればやるほど有り難くないのが 『般若心経』 であります。というのも、色即是空を強調しますと、どうもすべてが不確かな幻まぼろし
や幽霊のような存在に見えて来てしまうからです。正直な話、すべては実体がなく虚しく、絶えず変化してやまない、などと聞いて 「ああ、今日の法話はよかった。有り難い話しだった」
などと思う人は、まずいないのではないでしょうか。だからといって、 「すべては移り変わるんだから、よいことも悪いことも、あまり気にして執着しても仕方があちません」
というような、気休め的な般若心経になってしまうのも感心出来ません。 もっとも仏教学的に言えば、 『般若心経』 自体が、それほど有り難い救いを説くお経ではないという人もいます。それはおそらく、この空即是色という表現を色即是空の
「逆もまた真なり」 であるにすぎないと誤解しているからでしょう。しかし実際には、色即是空と空即是色とでは、大きな違いがあるのです。 上座部仏教の析空観、つまり空を分析的にとらえるやりかたでは、色即是空は説明出来ますが、空即是色までは説明出来ないのではないかと考えます。大乗仏教の体空観たいくうがん
、つまり空をあくまでも感覚的、体感的にとらえるやり方だからこそいえるのです。 これは、科学的に考えれば分かることです。物をどんどん分析していけば、分子、電子、素粒子そりゅうし
、そして最終的には波動になるとも言われています。波動は明確には “もの” とはいえません。空なる宇宙に生じる一種の “ゆらぎ” です。でも、ここから “もの”
が生じてくる。いってみれば無限の有を蔵したものが “空” ということになります。ただしこれは、言語や理屈を超越した神秘思想であって、理論哲学ではないのです。 大乗仏教が理論哲学ではないといっても、もちろん多くの論書があります。理屈もなかなか立派なもので、哲学といってももちろん通用します。しかし、本質的にこれらは理論構築的な産物ではないのです。それがどんなに理論的であっても、いわば修行による体験智を伝えるための手段にすぎないというのが、上座部の析空観とは根本的に違うところです。つまるところ、上座部仏教は哲学といっていいと思いますが、大乗仏教は宗教以外の何ものでもないのです。 色即是空は、まだたとえ話などもしやすいのですが。空即是色は難しいでしょう。しいて言えば、われわれの存在です。われわれはどこから来てどこへ行くのでしょう。普通は死ねばおしまいだと言われますが、われわれが知らないのは、死後の世界ばかりではありません。生まれる前の世界もまた知らないのです。 弘法大師も
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死んで死の終りに冥し」 と言われました。しかし、それでも生まれては消えていくのが生命の不思議さです。消えるものなら、なぜ生まれるのか。生まれるなら、なぜ消えていくのか。その答えは、皆さん自身が見つけて下さい。そのために、この本が少しでもお役に立てれば幸いです。われわれの生死が、そのままに色即是空そして空即是色であります。 |