第五節 色
不ふ 異い
空くう 空くう
不ふ 異い
色しき |
(書き下し) | 色は空くう
に異ならず。空は色に異ならず | (現代語訳) | あらゆる物質は、空くう
を離れて別にあるものではない。 空くう
もまた、物質と別のものではない。 |
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この部分から、いよいよ
「空」 についての教えが始まる。 まず、色 (物質) と空 (実体のないもの)
とが、同じものであることを説く。 |
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色しき
は空くう に異ならず、空くう
は色しき に異ならずとは、一枚の紙の表裏のように、空」と色はぴったりひとつだということです。ですから色と何か、空とは何かを説明していきますと、最後には同じ説明になってしまいます。 色は物質でありますが、実際には空なのです。空はまた空で、色を離れて別に存在するものはではありません。いわば凡夫ぼんぷ
の目で見れば色は色のままですが、仏の目で見れば色も空だということになります。 仏教では 「諸行しょぎょう
無常むじょう 」 と言います。すべては、うつろいゆくものだということです。また
「諸方しょうほう 無我むが
」 と言いまして、存在すべてにおいて、常住じょうじゅう
普遍ふへん の本質などあり得ないと言います。ここでいう法とは、宇宙そのものを意味します。 空という言葉は、無とはいささかニュアンスが違います。無は何もないということですが、あるにはあるけれども確固としたものはないのだというのが空です。そのことが分かれば、生まれ変わり死に変わりを超えた智を得るので
「生滅しょうめつ 滅智めつち
」 といい、また、その悟りの境地は 「寂滅じゃくめつ
為楽いらく 」 と表現されています。 日本仏教では古来、天台大師てんだいだいし
智ちぎ (583〜857年)
のつくられた 「五時ごじ 八教はっきょう
の教判きょうはん 」 というものを大切にしてきました。これは、膨大ぼうだい
な量のお経の内容を分類するために考えられた序列法で、一切経いっさいきょう
(残されたすべてのお経) をお釈迦様の 一代にあてはめて、それがいつ頃説かれた、どのような教えなのかを説明するものです。こうした経典の分類に立って説教を展開することを
「教相判釈きょうそうはんじゃく」
、略して 「教判」 といいます。もちろん前にお話ししたように、大乗だいじょう
経典自体は、お釈迦様ご本人が書かれたものではありませんが、天台大師はそれをお釈迦様の説という形式で、経典の目的や説教の深浅を分類したのです。 天台大師は中国隋ずい
代の高僧であり天台宗の祖ですが、この説は伝教でんぎょう
大師最澄さいちょう (767〜822年)
が日本にもたらして以来、急速に定着しました。臨済りんざい
宗、曹洞そうとう 宗、日蓮にちれん
宗、浄土宗などはみな天台宗から出ましたので、おのおのの説は異なるものの、一応この教判が大前提になっております。その中では般若経典は 「通教つうきょう
」 ということになっています。通教とは、一切の仏教に共通する教えということです。 天台宗の五時八教の教判によれば 『法華経ほけきょう
』 こそが最高の教えということになっています。しかしながら天台宗へいきますと、 『法華経』 と合わせて、さかんに 『般若はんにゃ
心経しんぎょう 』 をあげております。これは、この経典が仏教全体にわたる根本的真理を説いているからです。つまり天台宗の教えでは、最高の教えを説く
『法華経』 といえども、その土台となる般若経典があってはじめて存在するといっても過言ではないのです。 |