十大弟子 |
舎利弗
(智慧ちえ
第一) |
十大弟子の筆頭。お釈迦様から、仏となるであろう弟子に授けられる
「授記」 を受けた。 |
|
目連もくれん
(神通じんずう
第一) |
梵語ぼんご
ではモッガラヤーナ。ここでいう神通というのは、いわゆる超能力のことです。お釈迦様は、こうした能力を必ずしも評価されませんでしたが、布教活動への邪魔があったり、説法に必要である時は、臨機応変に用いられたようです。目連が神通第一と言われるのも、こうした能力に長た
けていたからです。 『阿含経あごんきょう
』 などの原始仏典には、お釈迦様の生国を滅ぼそうとする敵国の軍隊を神通力で防ごうとしたとか、地獄で苦しむ実母を見つけ、その救済策をお釈迦様に相談した、という逸話が残されています。 |
|
迦葉かしょう
(頭陀ずだ
第一) |
梵語ではカーシャパ。頭陀とは頭陀行のことで、衣食住に対する欲を少なくするというものです。迦葉はこの行を、誰よりも徹底して出来たというのです。もともとはお釈迦様がお生まれになった王舎城おうしゃじょう
という町に、婆羅門ばらもん の子として生まれました。婆羅門とは、神々の祭祀をつかさどる神官の家系です。迦葉は、お釈迦様と出会う前に、すでにかなりの修行をされていたようで、出会ったからわずか八日後に悟りを開かれたと伝えられています。 |
|
須菩提しゅぼだい
(供養第一) |
梵語ではスプーティ。もとは商人でした。お釈迦様の活動拠点の一つ、祇園精舎ぎおんしょうじゃ
を寄進したことで知られる大富豪の須達しゅだつ
(スダッタ) は、須菩提の伯父に当たります。この人が供養第一とされるのは、この方がお釈迦様に対して多くの供養をした、というのではありません。この方自身に人気があり、多くの人たちから供養を受けたというのです。人気の秘密は、その人柄にありました。須菩提は生涯人と争わないという主義を貫き、たとえ他宗派の人間が激しい論戦を挑み、罵ののし
り、中傷しても決して争わなかったといいます。 |
|
富桜那ふるな
(弁舌第一) |
富桜那は略称で、プールナ・マイトラーヤニープトラというのが梵語での名前です。迦葉と同じく、婆羅門の家系に生まれました。この方の実兄は、お釈迦様が鹿野苑ろくやおん
でお悟りを開かれた時、最初の説法を聞いて弟子となられたコンダニャです。弁舌というのは、説法がとても上手だったからです。 |
|
迦旋延かせんねん
(論議第一) |
梵語ではカーティヤーヤナ。この方も婆羅門出身です。論議第一とは、つまり哲学的な考究に優れていたのです。お釈迦様は、無学な民衆だけを相手に、仏法を説かれたわけではありません。 深く学問を修めた婆羅門や王族が相手となることもあります。そんな時には、理詰めで納得させられる解析的な論法が必要でした。迦旋延は、そうした説法を得意としていたのです。この方はお釈迦様や舎利弗、目連が亡くなってしまった後の仏教団の柱となり王族を中心にその教えを広めました。 |
|
阿那律あなりつ
(天眼てんげん
第一) |
梵語ではアヌルッダ。この方はお釈迦様のいとこにあたる方です。天眼も超能力の一種で、たとえばある人物の顔を見ると、その人の過去世かこせ
や未来の姿が見える。というような能力があったと言われます。この方はある時、お釈迦様の説法中に居眠りをして叱責しっせき
され、それ以来、決して横にならないという苦行を生涯にわたって貫きました。このことがきっかけで失明されたと言いますから、肉体的な視力はなかったようです。お釈迦様の信頼は篤く、常にそば近くにしたがっておられました。お釈迦様の死後の旅にも同行して、阿難陀あなんだ
とともに臨終に立ち合った数少ないお弟子であります。 |
|
優波離うばり
(持律じりつ
第一) |
梵語ではウパーリ。もとは釈迦族につかえた理髪師でした。持律、つまり戒律を厳格に守ったことで知られ、仏典編纂へんさん
会議においても戒律部門を担当しています。 |
|
羅?羅らごら
(密行みつぎょう
第一) |
梵語でラーフラ。お釈迦様の実子です。この方がお生まれになった時、お釈迦様が
「ラーフラ (障さわ
り) が生まれた」 と言って嘆なげ
かれたことから、ついた名前だと言われています。教団では智慧第一と言われた舎利弗に直接ついて修行されました。学問を好み、不言実行でお弟子たちの尊崇を集めました。密行とは、人知れず学び、努力したという意味です。 |
|
阿難陀あなんだ
(多門たもん
第一) |
梵語ではアーナンダ。この方も釈迦族で、お釈迦様のいとこに当たります。実に二十五年もの間、お釈迦様につき従っていた方で、このため多門、つまりもっとも多くの説法を聞いたお弟子とらえるのです。大乗の経典の冒頭には、必ず
「如是にょぜ 我聞がもん
」 とあります。これは、 「私はこのようにお釈迦様から聞きました」 という意味で、お釈迦様の没後に開かれた経典編纂会議での阿難陀の言葉がもとになっているのです。 |
|