〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part X-U』 〜 〜
== 『般 若 心 経』==

2017/07/18 (火) 

第三節  一切いっさい 苦厄くやく

(書き下し) 一切の苦厄を したもう
(現代語訳) 一切の悩み苦しみを超越した
仏教では、この世の中は 「一切皆苦かいく 」 、苦しみに満ちているとされている。
しかしさと りを開き、自分が変われば、苦しみはもはや苦しみでなくなっていく。
苦厄くやく すという、この度という字ですが、さんずいをつけて読めば分かるように 「わた す」 とも読みます。一体どこへ渡すのでしょう。それは 「 の岸」 と言われる悟りの世界です。
春と秋に 「お彼岸ひがん 」 があり、お寺でもお彼岸の法要がありますが、あれは亡くなった方が悟りの岸に着くのをお助けするため、追善回向ついぜんえこう をするのです。そのため、お彼岸というのです。ですから苦厄を度すというのは、お悟りを開いていくことと同義なのであります。ちなみに回向とは、われわれが供養や布施ふせ によって積んだコを、亡くなった方に譲り回し、それによって彼岸へ渡られるのをお助けすることをいいます。
苦厄を度すというのは、何らかの超能力のようなものを使って問題を解決するようなこととは少し違います。むしろもんだいがあっても、それが問題ではなくなるということです。無論、大菩薩だいぼさつ である観音様かんのんさま のことですから、超能力のような不思議な力も備えておられるとは思いますが、ここで言うのは問題が変わるのでなく、自分の方が変わるということであう。極端な話し、自分自身が苦厄を超越することが出来れば、それはないのと同じことなのです。
仏教ではこの世の中を 「一切皆苦いっさいかいく 」 と言いまして、苦しみに満ち満ちた世界だととらえます。
そもそもお釈迦しゃか 様が仏道を開いたのも、もとはと言えば、世の中に満ち満ちた苦悩から解脱げだつ することが目的でした。 「仏伝物語」 には、お釈迦様が王宮の中で何不自由なく暮らしていた王子であったころの話を伝えています。
王子はある時、こっそりと王城の門を出られます。そこには、これまで王子には隠されていた人々の苦しみが、いくつも横たわっていました王子はまず、生まれて始めて見る病人に驚き、次に老人を見て驚き、最後に死人を見て大いに驚き、これをきっかけに、これらの苦しみを解決する方法を求めて修行の旅に出たといわれています。そして修行の果てに、お釈迦様が得た解決法が 「悟り」 であったのです。
どんなに養生していても、死なない人はいません。年をとらない人というのもおりません。年をとるのは自然なことであり、死ぬのもまた自然なことです。誰もがそんなことは当たり前と思ってはいるものの、なかなか受け入れられないのも現実です。これらの現実をそのまま受け入れられる人こそ、一切の苦厄を度す人というべきでしょう。
これは、生老病死について考えても無駄だ、意味がないということではないのです。この当たり前のことに正面から向き合い、苦悩し尽したのがお釈迦様なのです。何不自由のない身の上なのに、人が生まれ、老い、病で死ぬということがたまらないというので城を抜け出したのです。常識的考えたら、 「なんて馬鹿なんだろう」 という人だって、きっといるでしょう。しかし 「そんなことを考えたって無駄だから」 というのが人生の苦悩に対する結論なら、何のためにお釈迦様が修行され仏教を開かれたのかがわからなくなります。
仏道の世界では、生に意味があるように、死にも老いにも意味があると考えます。
最近で、お年寄りがいつまでも若者のように恋をしたり、遊びまわったり、まるで万年青年のように生きるのが理想のように言われています。たしかにそういう元気さは、大変すばらしいことと思います。でももう一方で、年を重ねたからこそ、はじめて分かることや教えられることもあるはずです。それらは老いということを否定しては見えて来ない大切なものではないでしょうか。元気なのは結構ですが、いつまでも若者に張り合ってはしゃいでいるばかりいては、本当に培ってきた大切なものを見落としてしまうような気がいたします。最近はとかくお年寄りに対する若い人の畏敬の念が薄いということが言われる傾向にありますが、その前にお年寄り自身が尊敬されるような実り豊かな年を重ねて来たのかどうかを、もう一度、自らに問わねばいけないように思います。いつまでも元気であると同時に、 「年甲斐としがい 」 のあるお年寄りになりたいものです。
昔のインドでは、社会的成功を収めた教養ある人は、晩年には宗教的真理を求めて山林に分け入り、遊行ゆぎょう の旅に出て俗世を離れる、という習慣があったそうです。実に理想的な人生だと思います。死ぬということもそうです。老いや死をただ まわしいこととしてとらえるのは、仏教の考え方ではありません。最近では、いかにもそれと分かるような霊柩車れいきゅうしゃ は、縁起がよくないので走らせないとしている県があると聞きますが、私はとんでもないkとだと思います。霊柩車が隣を走っていたら嫌だというのです。そういう考え方には、人生を生ききった人に対する敬意は微塵みじん もありません。
老いや死などについて考えてもしようがない、という姿勢は、それらと真面目に向き合う心を失わせます。仏教をあきらめの宗教などと評する人もあるようですが、決してあきらめ、消極的になっているわけではありません。生には生の、死には死の、老いには老いの意味があることに、むしろ正面から積極的に向き合っているのです。若いうち、元気なうちだけが人生ではありません。長生きなんてしたくない、という人も結構いるようですが、実際は、寿命のある限り、人は生き続けないわけにはいきません。
『実践 般若心経入門』 著:羽田 守快 ヨリ
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