「五蘊
」 というのは 色しき ・受じゅ
・想そう ・行ぎょう
・識しき の五つを言います。仏教では、この世界の存在はすべてこの五つの条件から出来ていると考えます。 「色」
ちは、いわゆる物質のことです。これには 地・水・風・空 の 「五大」 があります。現代風に言えば地は固体、水は液体や流動性、火は熱エネルギー、風は気体や上昇運動、空は虚空こくう
のことですから、目に見えない電磁波や紫外線などをこれに入れてもいいでしょう。また、霊のようなものも、仏教ではやはり色としての存在であると見なします。 受・想・行・識について仏教辞典などを見ますと、
「受」 は感覚作用、 「想」 は表象作用、 「行」 は意思作用、 「識」 は心の自性じしょう
であり、識別や了知りょうち の作用である、などと難解な言いまわしをしています。これらは大変分かりづらい概念ですが、われわれ日本人と古代インドの人々との認識の違いから来るもので、適当な言葉で言い換えると、かえって意味を損なう恐れすらありますので、まず字面じづら
通りに受け止めて、先をお読みいただきたいと思います。 「受」 から先を分かりやすくお話しするために、たとえば道の角から子供が急に飛び出して、ぶつかりそうになったと想定しましょう。 これを一番先にとらえるのは、眼などの感覚器官です。これを
「受」 と言います。実際にはものを見るといいましても、つまり眼に対象物がとらえられ、それがわれわれの脳に映ることによって 「見ている」 と感じているのです。次に
「想」 ですが、これは 「受」 を受け、それがどんなものかという想像がなされりことをいいます。そこで判断として、それにぶつかるまいとするのが 「行」 です。
「行」 は心の作用ですが、具体的な行為の誘因となるものでもあります。そして 「識」 は、それら一連の完了つまり認識作用ということになります。ここで初めて、
「道の角からいきなり子供が飛び出して来たけれど、とっさに避けたのでぶつからずにすんでよかった」 などということが意識されます。 これは主に上座部じょうざぶ
仏教の主張ですが、実は 「私」 という存在、つまりわれわれ自身である 「個我」 の存在も、この繰り返しで認識されているのだというのです。つまり受想行識とは、われわれの精神活動の仕組みをいったものでしょうが、なにぶん古代インド流の心理学的解釈ですので、こう言ってみても馴染みがなく、なかなかピンとこないかも知れません。ただ、今はおおむね申し上げたようなことと思って下さい。 観音様は、色受想行識がすべて
「空くう 」 、つまり実体のないものであると悟られたのだということです。ここで大切なことは、この観音様の
「空」 のお悟さと りというのは、思索的なものでも哲学的なものでもないという点です。空ということを理詰めで考えに考えて、その結果として分かったのではないのです。これはあくまでも直感的ちょっかんてき
に、頭ではなく身体で把握された空観くうがん
です。禅者の逸話いつわ に、小石が竹に当たるおとを聞いてたちどころに悟ったなどというものがありますが、まさにそんなとらえ方だと考えて下さい。こういう空のとらえ方を
「体空観たいくうがん 」 といいまして、大乗だいじょう
仏教の空観の特徴になっています。 これに対して、上座部の空のとらえ方は 「析空観しゃくくうがん
」 と言われ、分析的、思索的であります。たとえば 「家」 というものは、実は柱や屋根や壁などの建材で出来ています。したがって家というもの自体が、様々な要素の複合的な存在であって、確固とした存在というわけではないのです。同じように人間も血や肉や内臓、骨などが寄り集まったものであって、バラバラにしてしまえば、それはもう人間ではない。いわばこう言う考え方が析空観です。 もちろん、実際の上座部の析空観はこんなに単純なものではありませんが、端的たんてき
に言えば存在は複合的である。というのがその主張であります。しかし、その分析した要素が、どこまでも分析されていくものなのかどうかは、同じ上座部仏教でも学派により考えが異なるようです。 上座部の析空観が分析的だからといって、実践がおろそかになっているということはもちろんありません。理詰めの空観を実践的な瞑想で体感するというプロセスは、原始仏教教団からの伝統ですし、その修行の厳密さという点では、むしろ大乗仏教のどの宗派にも負けないほどです。 また、このようにして分析的に空をとらえるやり方を、大乗仏教でもまったくしないわけではありません。たとえば、大乗仏教の立場をとる禅宗では、
『無門関むもんかん 』 という書物が大切にされています。これは南宋なんそう
の無門むもん 慧開えかい
(1183〜1260年) が編んだ公案、つまり禅問答の問題集ですが、その中に 「奚仲造車けいちゅうぞうしゃ
」 という公案があります。 問いは 「車づくりの名人が車を百台つくったが、車輪と車軸をはずしてしまった。果たしてこれは何を意味するものか」 というものです。車から車輪と車軸とをとってしまえば、ただの荷台になってしまいます。もうそこには車はありません。この公案は、車と荷台や車軸や車輪の複合物でしかないといおうことで、空を導き出しています。つまり、これと同じように、すべてのものは要素の集合であり、絶対的な存在ではあり得ないということです。 しかし、これはあくまで空を理解するためのたとえ話であり、空の真実の姿を伝えるお話ではありません。 |