〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part X-U』 〜 〜
== 『般 若 心 経』==

2017/07/16 (土) 

かん 自在じざい 菩薩ぼさつ  行深ぎょうじん 般若はんにゃ 波羅はら 蜜多みつた

(書き下し) 観自在菩薩が 深く般若波羅蜜多を行じたまいしとき
(現代語訳) 観自在菩薩が 深く真理の境地に至ったとき
『般若心経』 の冒頭に登場するのは、観世音菩薩である。
この菩薩は、悩み苦しむ人々の声をよく見きわめ、救いの手を差し伸べるという。

かん 自在じざい 菩薩ぼさつ とは、観音様かんのんさま のことです。また、大乗だいじょう 仏教の修行者を 「菩薩」 といいます。菩薩についてはいかなるものか、また後ほど詳しくお話しいたしますが、菩薩にはこの世界の菩薩である 「界内かいだい の菩薩」 と、すでに聖者になった 「界外かいげ の菩薩」 とがあります。そして界内の菩薩は、仏道修行に励む人なら、どなたでもなれる菩薩です。
ところが観音様は、すでに輪廻りんね というこの世での生まれ変わり死に変わりを脱した 「界外の菩薩」 であります。○○菩薩といって仏像辞典などに出てくるのは、ほとんどこういう界外の菩薩です。ですから当然、肉体を持った歴史上の人物のことではありません。先ほどご紹介しました盤珪ばんけい 禅師ぜんじ などは、 「観音とは、私たち自身のことです」 と解説していますが、ここではそういう深い解釈において、基本的な意味や言葉がわかることを優先に紹介してまいります。
観音様というのは、実は略称でして、正式には観世かんぜ おん 菩薩ぼさつ もしくは観自在菩薩というのが一般的です。観世音とは観音様の 「たい 」 、つまりいかなる御方かを表した呼び方です。「世の音を る菩薩」 ということですが、音を観るという言い方は、われわれにとっては少し妙な感じがしますね。普通、音は聞くものだと思っているからです。聞くのではなく観るという時には、個々の言葉をひとつづつ聞くというより、常にわれわれの様々な言葉を らさずとらえる受信機のようなものをイメージするとよいのではないでしょうか。たとえ 「観音様、どうか助けて下さい」 という具体的な訴えがなかったとしても、声なき声も含めて、すべてを聞き漏らすまいとしてい菩薩、それが観音様であります。
これに対して観自在と申し上げる時は、その 「よう 」 、つまり菩薩様の救いのお働きを表した言い方になりましょう。
人を救うためには、様々なものの見方をすることが大切です。したがって仏教には、固定的な絶対悪というものはありません。たとえば嘘をつくのは、基本的のよくないことであります。仏教の戒の中にも不妄ふもう 語戒ごかい というものがあり、嘘をついてはならないとしていますが、ならば、どんな時でも正直に言うのが正しいのかというと。どうでしょう。たとえば空き巣泥棒と分かっている人物に 「お前の家はいつ留守になるのだ」 と尋ねられて、正直に答える人はいないでしょう。このように、臨機応変に物事をみなし、対応出来ることを観自在の対応と申します。
本当の救済には、ものを自在に観る柔軟性が必要です。それが出来ることが観自在ということです。その観音様が、深く般若はんにゃ 波羅蜜はらみつ の行をされていた時、というのがこの一節です。
この般若波羅蜜は、前に述べましたように、世間的な知識でも哲学的な思索でもありません。
波羅蜜多とは手だて、つまり悟りの境地へ進むための修行のことでありまして、大乗仏教には般若波羅蜜をふくむ 「六波羅蜜」 という行があります。

布施ふせ 波羅蜜はらみつ
いわゆる布施をすることですが、このほどこ しには、三種あるとされています。
一つは金銭的、物質的な施し。これを財施ざいせ といいます。
二番目は法を施すこと。法施ほうせ といいます。法というのは仏法、つまりお釈迦しゃか 様が説かれた真理です。この真理を出来るだけ多くの人たちに説くこと、これが本当の意味での法施なのです。
そしてもう一つ、無畏施むいせ と呼ばれるものがあります。これは文字通り、真理を知らないことから来る無意味なおそ れを除き、安心あんじん を与えることです。そういう意味では、法施の延長線上にあるものと言えるでしょう。
持戒じかい 波羅蜜はらみつ
戒律かいりつ遵守じゅんしゅ することです。かい とは、修行者がやってはいけないとされている決まりごとです。これはお釈迦様が指導されていた仏教教団で生まれたもので、比丘びく (男性の出家者) 比丘尼びくに (女性の出家者) が何か問題を起こすたび、お釈迦様自身によって細事から定められていきました。最後には二百五十もの数に膨れ上がったと言われます。一方、りつ には 「取り除く」 と意味があり 「この決まりごとによってつみ けが れを取り除く」 とでも解釈すればいいでしょう。
これに対して大乗仏教の戒は、形より精神を尊重し、一つ一つの細かい行為を取り決めるより、人々や生きものを利益りやく することを第一とし、戒さえ守ればいいのだという形式主義は否定されております。
忍辱にんにく 波羅蜜はらみつ
忍辱とは、耐え忍ぶことですが、単なる我慢ではありません。自らの反省の上に立つ忍耐です。さまざまな妨害や厳しい修行にひたすら耐え、悟りを求める勇猛心ゆうみょうしん のことです。
精進しょうじん 波羅蜜はらみつ
精進もまた、仏道修行者にとっては同様の心構えと言えるでしょう。 まずたゆ まず、疑いを捨てて前進することです。
禅定ぜんじょう 波羅蜜はらみつ
禅定とは、心身を安静にして瞑想することで、よく知られているのはいわゆる坐禅ざぜん です。もともとはバラモン教など古代インドの宗教を源流とする修行法で、お釈迦様自身の中心的な行も、この坐禅でした。坐禅には阿字あじ かん や日想観そうかん など、宗派によって多くの方法があります。
般若はんにゃ 波羅蜜はらみつ
般若波羅蜜は、仏智を得た行いをいうのであって、これという形はありません。般若が悟りの智慧ちえ を表すことはすでに述べましたが、この最後の般若波羅蜜への到達のために、前の五波羅蜜が用意されているともいえるのです。もし具体的な形をあげるとすれば、これも坐禅の姿と考えてもらえばいいのですが、それが実際どういう禅定なのか、禅定波羅蜜とどこが違うのかなどについては、これからおいおい明らかにしていきたいと思います。

『実践 般若心経入門』 著:羽田 守快 ヨリ
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