魔訶
般若はんにゃ
波羅はら
蜜多みつた
心経しんぎょう
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(書き下し)
魔訶般若波羅蜜多心経 | (現代語訳) 偉大な智慧ちえ
による悟さと りの手段のお経 |
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般若波羅蜜多心経とは、宇宙の実相を見すえる仏の智慧、仏の心と言える。 そこに到達するためのエッセンス、すなわち
『心』 を説くのが、この経典である。 |
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「魔訶まか
」 とは、マハーというインドの古い言葉、つまり梵語ぼんご
でありまして、これには 「大きい」 「多い」 「優れた」 という三つの意味があります。 こういう多義的な言葉は、基本的に梵語のままにするのがお経のルールであります。しいて言うと、
「偉大なる」 といった意味でしょうか。 ちょっと古い言葉ですが、 「摩訶不思議」 などというのも同じです。これは、より平易な日本語にするなら、 「とても不思議」
という意味になりますが、そう言ってしまっては、うまく伝わらないようなニュアンスがあります。やはり摩訶不思議と、梵語をそのままいかすからこそ、何ともいえない不思議さが漂うのではないでしょうか。これからおいおいご説明することになりますが、お経にはそんな言葉があふれております。 次の
「般若はんや
波羅はら 蜜多みつた
」 も、原音ではパンニャパーラミタと発音します。これも梵語です。般若は 「 智慧ちえ
」 と訳されます。ただこれは、普通の世間的な知識や教養のような智慧ではありません。ですからこれも、ただ智慧などと言わずに、 「般若」 とか 「
薩婆さわ 若智にゃち
」 などと言うことが多いのです。これは宇宙の本性、すなわち実相じっそう
を見すえた仏の智慧、仏の心であります。仏教とは、これを求めることを目的とした教えです。これを完成させた人を 「仏陀ぶつだ
」 といい 「仏ほとけ 」 というのです。 日常会話で
「ホトケさん」 というと、たいてい亡くなられた方のことを言いますが、これは本来の 「仏」 が意味するところとは異なります。また、亡くなられた方の霊が安らかにあの世へいくことを
「成仏じょうぶつ 」 といいますが、これも通俗的な表現にすぎません。ただ、
「故人もありがたいお経を聞き、さだめし悟さと
りを開いたことだろう」 という気持を込めて、そのように表現するのでしょう。しかし、そう簡単にお釈迦しゃか
様のような悟りは開けないと言うのが、本当のところです。 「波羅蜜多」 は 「到彼岸とうひがん
」 などと訳されています。彼岸とはこの場合、到達すべき悟りを岸に例えたものです。般若と合わせて訳すならば 「真理の岸に至る智慧の手立て、方法」 ということになります。 初めから聞き慣れない梵語のオンパレードで恐縮ですが、次の
「心」 も、梵語ではフリダヤといい、これは 「略」 とか 「本質」 という意味に訳されています。古来 『般若心経』 は、同じ般若部経典である 『大般若経』
六百巻の略版、つまりダイジェストだとされて来ました。しかし最近、 「心」 を本質と訳した方がよいという学説が出てまいりました。ダイジェストではなくエッセンスだというのです。私は梵文は不勉強でして、梵文学的にはどうなのかよく分かりませんが、その方がこのお経にはふさわしいように感じます。つまり
『般若心経』 とは、『大般若経』 の精髄せいずい
(心) のお経という意味です。 最後の 「経」 は、もちろん 「お経」 の意味ですが、この経よいう漢字は、
「縦糸たていと 」 という意味を持ちます。昔、お経は葉っぱに書いて綴つづ
り合せたので、そういうのだそうです。深い読み方をすれば、お経は真理へまっすぐに向かう縦糸、という意味にもとれましょう。ちなみに梵語では、お経をスートラといいます。漢字では
「修多羅」 などと書きます。 お葬式や大きな法事の席では、金襴きんらん
のマントのような豪華な袈裟をつけたお坊さんが出てまいりますが、あの袈裟は 「七條袈裟」 とか 「九條袈裟」 といいまして、別名を 「修多羅袈裟」 といいます。そのわけは、背中の方に長く紐ひも
で編んだ 「修多羅」 というものを吊るしているからです。この紐はその名の通り 「修多羅」 、つまりお経を表しています。古代インドで、椰子やし
の葉などに書いたお経を、こうして背負って運んだことによるのだといいます。 前にも申しましたように、お経はお釈迦様が説かれたことになっていますが、歴史上の仏であるお釈迦様が、実際にお書きになったものはありません。それゆえに
「大乗非仏説だいじょうひぶっせつ
」 、つまり大乗仏教は仏教ではない、と考える人もいます。明治時代には、文献学的な考察が進んでいたドイツの仏典研究の成果が 「大乗非仏説」 とともに日本に伝えられ、仏教界は騒然となったといいます。 |