『般若心経』
に限らず、お経に親しむことは大変な 「功徳
」 になるとされています。 「功徳」 とは、その人物や生活を豊かで立派なものにする種たね
となるということです。「具体的にどのようにして立派になるのか」 という質問に対しては、その人が人として前進するような縁を呼んでくれる、不思議な力があるのだと申しておきたいと思います。 ただしお経を読んでいるからただちにその人が偉いとか、人より立派だということではありません。大切なことは、仏様からいただいたご縁をどう生かすかということです。そこで初めて、人としての前進があるのです。この点を勘違いしますと、
「私は信仰しているからほかの人より偉いのだ」 とか、 「お経を読んでいるから立派なのだ」 という、鼻持ちならない空いばりをしたり、根拠のない虚勢を張ることになります。見る人が見れば、これくらい恥ずかしいことはありません。えてして中身のない人ほどそのようになりがちなので、この点はよく注意したいところです。 また、
「 『般若心経』 を読むとご利益りやく
はありますか」 と尋ねる人もあります。ご利益は必ずあります。ただしそれは、すぐに認識出来るような形でいただけるとは限りません。本人も知らない所で、ただ得分とくぶん
として積まれていくこともありますし、具体的に何か救われたと思うようなこともあるかも知れません。自分の願いなどがかなうかどうかは、また別の問題です。 なかには、
『般若心経』 をたくさん読んだけれど、望みがかなわなかったという人もあるかと思いますが、お経は願望達成機ではありませんので、いくら読んでも欲しいものがそのままいたけるかどうかはわかりません。 とはいえ、古来そのためにこそ最も読まれて来たお経なのです。願望があって読むのがいけないとは言えません。ただ、願望があるなら現実にも精進しょうじん
努力して、お経も読み、おのおのの務めに励むべきです。また、本当にご利益が欲しいのなら、その準備が必要です。何の準備もなくご利益をいただいても、それを保つことは出来ません。それはお経の罪ではなく、当事者の問題でありましょう。 |