それからの二年半、ヴォルフガングはザルツブルクを出られなかった。 それは、忍耐力を試されているような年月だった。 とりわけ、マリア・テレージアの末っ子マクシミリアン・フランッ大公がイタリア訪問の途上、ザルツブルクを訪れ、その歓迎のための祝典オペラ
《牧人の王》 を作曲し上演した時はつらかった。ヴォルフガングの中には、イタリアへのあこがれが息苦しいほど渦巻いていた。 彼はどれほど、自分と同い年のこの大公と一緒にイタリアへ行きたい、と望んだことだろう! かつてヴォルフガングに贈られたのはこの皇子の大礼服なのだ。それにつらなる長い長い栄光の日々の中に、イタリアがあった。 「お父さん、ぼくイタリアのことを聞いたり見たりすると、悲しくて泣きたくなる」 大公を迎えて、めずらしくはなやいだ日々が過ぎ去った後、ヴォルフガングは重症のイタリア病に打ちひしがれるのだった。 レオポルトとて、無傷ではなかった。それどころか、彼は息子以上に重症だった。 手をこまねいているうちに、月日だけは飛ぶように過ぎ去って行く。 息子はもう十九歳だ、いや二十歳になってしまった。 ヴォルフガングは大司教から命令され注文された宮廷用の音楽をひたすら書き続け、ザルツブルクの音楽好きの貴族ロードゥローン伯爵夫人のための
《でぃヴぇるティメント (貴族や金持ちのための娯楽音楽) 》 など、娯楽作品もたくさん書いている。 暇なときにはミラベル庭園でのおしゃべりや散歩や、各家庭で持回りで行われる射的大会にも加わって、けっこう家族や友人たちと楽しそうにやっている。 しかしそれは、息子のあるべき姿ではない。 大司教の田舎宮廷に、ひと月わずか十二グルデン三十クロイツァーで雇われて、赤の宮廷楽団員のお仕着せを着せられた息子の姿など、レオポルトは見たくもないし、十年前に想像したこともなかった。 ──
ここではやることはあまりないのに、自由に動き回ることは許されない。大司教はちょっとどこかけ出かけても、すぐ戻って来て、臣下に絶対的な服従を命じる。ここほど音楽家が虐待されている土地はない。 なんとかしなくてはならない。という気持がレオポルトに、ボローニャのマルティーニ神父に息子の近作を送るアイディアを思いつかせた。 「おまえの作品を神父様にお送りして、お高評をあおぐのだ。おまえは今、自分の人生を決めなくてはならない年齢にきている。ここにいて平々凡々な音楽家として世の中から忘れ去られるか、有名な楽長として後世にまで名を残すか、だ。マルティーニ師の返事が、われわれになんらかのきっかけを与えてくれるだろう」 「ああ、神父様!
あの尊敬するお方のそばに行き、お話したり議論を戦わせたい、どれほど望んでいるだろう! お父さん、ぼくは対位法を用いた作品を書くよ。そしてぼくの腕がにぶっていないことを、神父様に知っていただくんだ!」 ヴォルフガングは堂々とした
《モテット》 を書き、手紙と一緒にマルティーニ神父に送った。 神父は、ヴォルフガングの進歩がいちじるしいことを喜ぶ内容の手紙の中で、ヴォルフガング肖像画がほしいと希望してきた。 レオポルトは画家が見つかりしだい、息子の肖像画を描かせることにした。それには黄金拍車勲章をつけた姿がよいだろう。 久しぶりに日の目を見る美しい勲章・・・・。 このような宝物や楽友協会の名誉ある会員証がガラクタ同然に扱われる土地は、音楽家もまたゴミのように扱われるのだ。 「おまえはやはり、ここにいてはいけない。また旅に出て、おまえにふさわしい宮廷を探さなくてはいけない」 意を決したレオポルトは、大司教に休暇を願い出た。 「愚息が猊下の宮廷にお仕えしましてから、五年が過ぎました。しかるに当地におきましては、愚息のもっとも得意とするオペラ作曲の機会が与えられず、愚息にとりましては、まことに恵まれぬ運命あります。このうえは再び旅に出て運をためしたく、猊下にわたくしども親子の長期の休暇をお許し下さいますよう、つつしんでお願い申し上げます」 大司教は親子の休暇を許さなかった。 「やむを得ぬ場合は、息子だけなら旅に出てもよい」 と答えた次の言葉が、レオポルトを激怒させた。 「だが、おまえの息子は何も心得ておらんぞ。オペラなど書く前に、ナポリの音楽院にでも入って音楽を勉強したらどうだ」 |