〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part X-T』 〜 〜
== モ ー ツ ァ ル ト==
(著:ひ の ま ど か)

2017/06/16 (金) 

イ タ リ ア 病 (三)

一月のはじめにフィレンツェの宮廷から、
「大公が手紙を受け取られ、この件についてじっくり検討されている」
という知らせが入った。
── 何事においても、すばらしいことの実現には時間がかかるものだ。
レオポルトはこの運動の成功をほぼ確信していた。大公は二年半前、ヴォルフガングにそれはそれは親しく接して下さったではないか。
まもなくオペラの公演は終了し、ヴォルフガングはカスティリオーネ伯爵から報酬の百三十ジリアートと美しい金時計を贈られた。
フィレンツェからの返事は、まだ来なかった。
コロレド大司教からは、公演が終わったら、ただちにザルツブルクに帰り宮廷の仕事に戻るように、との厳命を受けている。
レオポルトはふたたび病気になった。
一週間おきに出す留守宅の妻への手紙には、帰りたくても帰れない事情がめんめんと書きつらねてあった。
『もう一週間も前から、わたしははげしいリューマチにおそわれて、ずっとベッドに寝ていなければなりませんでした。痛みは左の足の付け根からはじまって左ひざにうつり、いまでは右ひさにもきています。わたしが使っているのはゴボウの根の茶だけで、これを毎日、大きなコップに三杯も四杯も飲みほしています』
『わたしはまたベッドで手紙を書いています。というのも、くそいまいましいリューマチで伏せっていて、まるで死に損なった犬のように苦しんでいるからです。今がまさに、わたしの病気にとって一番危険な時です』
『来週のはじめにはここを発って、おまえたちに会えるものと願っていましたが、いまいましいリューマチはいまでは右肩にまでやって来て、何一つ自分では出来ません。 わたしのリューマチがすっかりよくならないうちに発ちでもしたら、途中みじめな宿に寝込んでしまうに決まっています』
『宮内大臣閣下にお手紙をさし上げて、わたしたちのザルツブルク帰省が遅れていることについて、大司教猊下にお詫びを申し上げるべくつつしんでお願い申し上げたいのだが、リューマチのため筋の通った文章が書けないのです。自分のリューマチでわたしがごく自然に想像できるのは、ハイドンの歌芝居に出てきた、背中の曲がった悪魔です』
『残念ながらまだミラノにいます。わたしのリューマチはわたしを苛々させるが、チロルを通っていくことも心配です。だから、わたしの健康が許す限り早く出発する、としかいえません』
リューマチについての手紙は、ひと月も続いた。
一方、それらの手紙に折りこまれた妻への暗号文には、フィレンツェとの交渉の手短な報告が書かれてあった。
『大公殿下からは、その後お返事がありません。わたしの健康に関して書いていることは、全部本当ではありません。でもおまえはどこででも、わたしが病気だと言わなければいけない。そうすれば、このことは誰にも分かりません』
『わたしたちは幸い元気です。フィレンツェからの使いを待っていたので、旅が出来ません』
『例のことはあmり望みがありません。大公からの返事はまだ来ないし、フィルミアン伯爵もほとんど望みがないだろう、とおっしゃっています。もしそうだとしても、わたしは大公がわたしたちをどこかに推薦して下さることに望みを持っています。でも、たとえ万事が無駄だったとしても、わたしたちは破滅はしません。神さまがわたしたちをお助け下さるでしょう。もう自分の考えは決めてしまいました。ひたすら貯金をすることです。そして健康であることです。旅をしようと思えば、お金を持っていなければならないのです』
『例のことについては何もすることが出来ません。神さまはわたしたちには何か別のことをお考え下さるようです。わたしたちは幸い元気です。出発を前にして、わたしがどんなに狼狽しているか、おまえには想像出来ないでしょう。わたしはイタリアを去るのがつらいのです』
フィレンツェからの公式の返事は、二月二十七日に届いた。
そこには大公殿下には今そのお気持はないということが、簡単な文面で記されてあった。
レオポルトは大きな賭けに負けたのだ。

『モーツァルト』 著:ひのまどか ヨリ
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