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タ リ ア 病 (二) | 十月十四日、親子は大雨に中を、三度イタリアの向けて旅立った。 今度の旅は出発から到着まで雨にたたれれどうしで、駅馬車の中も不快ならば、宿はもっとじめじめして寒く、いつも陽気なヴォルフガングでさえ機嫌が悪かった。 この前と同じようにヴェローナのルジャーティ家で二泊した親子は、十一月四日にミラノに着いた。 ヴォルフガングはただちに作曲にかかり「、今度のオペラ
《ルーチョ・シッラ》を五週間で感性させた。 この重労働の間に、親子は大恩あるフィルミアン伯爵が催した三度の夜会に出席して、ヴォルフガングは疲れているのもかかわらず、毎晩演奏した。 その三夜目には、結婚して一年のフェルディナント大公夫妻も顔を見せ、親子と長い間親しく話しをした。しかし大公はその間に一度も、ヴォルフガングを雇う件については触れなかった。 ──
大公殿下はお若いけれどもケチでいらっしゃるのだ。ヴォルフガングのことは非常に気に入られているが、余分な金を出す気にはなれないのだろう。 真相を知らないレオポルトは、大公の宮廷への就職運動が実らなかったわけを、そう解釈した。 そうとなれば、早急に次の手を打たなくてはならない。 レオポルトは息子が書き上げたオペラ
《ルーチョ・シッラ》 のスコアを大急ぎで写譜屋び写させ、表紙には、ストカーナ大公レオポルトへの献呈の辞を書き入れて、フィレンツェの宮廷に送った。 同じ包みの中には、フィルミアン伯爵の
「ヴォルフガンゴ・アマデーオ・モーツァルトを大公の宮廷音楽家に推薦する」 という自筆の手紙と、レオポルトの請願状が入っていた。 父親の懸命な努力に対して、フィルミアン伯爵は今度も手を貸してくれたのだ。 |
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