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タ リ ア 病 (一) | 三月に入ってから後任の大司教の選任が行われて、グルクの司教をしていたヒエローニュムス・コロレッドという、四十歳の人物が選ばれた。 新大司教は、ウィーンで副首相までつとめたコロレド侯爵の息子で毛並みはよかったが、そに厳しい統治ぶりは、早ザルツブルク市民の口にのぼっていた。 四月二十九日に、新大司教のザルツブルク入城の儀式が行われた。 その日にそなえて、レオポルトは宮廷楽団用の管楽器を三本注文し、ヴォルフガングは祝典セレナータを作曲した。 しかし、着任と同時に大司教が示したのは、 「祝宴や奏楽などだが多額の費用を要する催しは、極力減らす」 といった厳しい節約方針だった。 ──
この分からず屋に対して休暇を願い出るのは気の重いことだ。 レオポルトは、以前と全く勝手が違ってしまた宮廷の状況に頭を痛めた。 いかし、この秋に予定しているイタリア行きは、なんとしてでも許可してもらわなくてはならない。ミラノの宮廷からは、
「まだ空席がない」 というやんわりした拒絶の手紙が届いていたが、ミラノだけが希望する職場ではなかった。 「帝国直轄の宮廷ならば、フィレンツェにもある。あの町とあの宮廷こそ、音楽家にとって理想の場所なのだ。おまえもフィレンツェを見たならば、人間はこの町でこそ生きて死ぬべきだと思うだろう」 レオポルトは次の目標フィレンツェの宮廷について妻に説明しながら、かつてナルディーニに聞いた時メモした情報を、くわしく調べ上げた。 八月の終わりに、コロレド大司教はヴォルフガングを無給のコンサート・マスターから年俸百五十グルデンの有給コンサート・マスターに昇進させた。 「百五十グルデンとは気前がいいこと!
ぼくのミラノでのオペラ作曲料の、四分の一じゃないか」 その措置からしてモーツァルト家では物笑いの種だったが、ともかくも大司教のおぼえめでたいうちにと、レオポルトは新侍従長の若いアルコ伯爵を通して、イタリア旅行の許可を願い出た。 「愚息は一昨年のクリスマスの第一オペラと昨年の祝典オペラの製作によって、多大の栄誉を勝ち得ましたため、同じ劇場からこの冬の謝肉祭の第一オペラを書くよう、再度招聘されました。この件につきましては、すでに契約を交わしておりますらめ、大司教猊下の寛大な配慮を切にお願い申し上げる次第です。愚息は新たな仕事におきましたも必ずや成功をおさめて、大司教猊下とザルツブルクのお名前を高めるでありましょう」 これに対するコロレド大司教の答えは、 「余の臣下がザルツブルグ以外の土地に長い間滞在することは望ましくないが、すでに契約を終えているということなので、今回は特別に許可する」 というものだった。 しかし、大司教がこのことを非常に不快に思っているらしいことは、親子の出立直前に、本来ならばその地位につくべき副楽長レオポルトの存在をさしおいて、わざわざドリスデンから呼び寄せたイタリア人の音楽家フィスキェッティを宮廷指揮者に任命した、というその行為からも明らかだった。 親子はそれを大司教のいやがらせとみた。
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