親子は二十四日の夜にミラノに着いてドゥカーレ劇場が用意した劇場近くの宿に入った。 そこでレオポルトは、台本がまだウィーンから届いていないことを知らされた。 「今回は台本の内容についての検閲がとりわけきびしいんですよ。しかし、問題はないはずですから、まもなく戻って来るでしょう」 オペラの上演までには、あとひと月余りしかない。 レオポルトはやきもきした。 しかしそれは、作曲が間に合わなくなるからではない。 ヴォルフガングに関してはどのような奇跡でも起こり得ることを、彼はたびたびこの目で見て来ている。 「私が心配しているのは、舞台装置や衣装が間に合うかどうか、ということなのです。かぎりなくめでたい御婚礼の祝儀に支障をきたすようなことがあれば、大変なことになりますからな」 レオポルトと劇場関係者が一日千秋の思いで台本の到着を待ちわびているかたわらで、ヴォルフガングは好物の梨やメロンや桃に舌鼓を打ち、いとも陽気に気楽に暮らしながら、同宿していた口のきけない少年と仲良くなって、手話を完全にマスターしてしまった。
台本は八月二十九日にようやく戻って来たが、台本作者のパリーニはさらに二、三日手を加えていたので、ヴォルフガングに渡されたのは九月に入ってからだった。 その日からヴォルフガングは奇跡的な能力を用いて、驚くべき速さで五線紙を埋めていった。 同じ部屋には写譜屋が待機していて、出来るそばから写しとっていったが、その手も追いつかないほどのスピードだった。 主役を歌うカストラートのマンツォーリや、ソプラノのジレッリや、テノールのティバルディは毎日のようにやって来て、ヴォルフガングが自分たちのアリアを書き上げるのを待っていた。いずれも大歌手ながら、十五歳の作曲家先生に最高の敬意を払っていた。 今度は何の妨害も入らなかった。 困ったことがあるとすれば、たぶん疲れからヴォルフガングが流感にかかってしまい、しょっちゅう鼻をかみながら書かなくてはならないことぐらいだった。 九月二十三日に、レオポルトは劇場監督カスティリオーネ伯爵に誇りを持って告げることが出来た。 「神さまのご加護をもちまして、息子は本日祝典オペラ
《アルバのアスカーニョ》 の全三十三曲をすべて書き上げました。このオペラの作曲に、ちょうど二十三日を要したことになります」 すぐに合唱やバレエをともなった総練習が行われ、大公の婚礼の前日、十月十四日に公演準備が完了した。 翌十五日、フェルディナント大公とマリーア・リッチャルダ大公女の結婚式がミラノの大聖堂で行われ、その後半月にわたる祭典の幕が切って落とされた。 この祭典のために二万ポンドのロウソクが用意され、宮殿や劇場や広場や、そのほか祭典に関係のある場所をこうこうと照らし出した。 ヴォルフガングのオペラ
《アルバのアスカーニョ》 は十月十七日に上演された。 最高の歌手陣と、金に糸目をつけない装置や衣装。 登場人物もヴィーナスや三美神や精霊たちという華麗さならば、これを受けるモーツァルトの音楽はこの上もない美に包まれており、新婚の大公御夫妻までが、バルコニーから指揮すヴォルフガングに
「ブラヴィッシモー」 の声を送る大盛況だった。 この前日には、イタリアで一番人気があるオペラ作曲家ハッセの作品が上演されたが、ヴォルフガングの成功はハッセを完全にしのいでいた。 このすばらしい仕事ぶりに対して、ヴォルフガングはフィルミアン伯爵から十分な作曲料とともに、マリア・テレージアからの贈り物として皇后の肖像画が嵌め込まれたダイアモンド入りの時計を渡された。 その時一緒に招かれていた老巨匠ハッセは、ヴォルフガングの成功を妬むどころか、反対にこの若いライヴァルに、 「この少年はわれわれすべてを忘れさせてしまうでしょう」 という最高の賛辞を贈ったのだった。 |