帰路、親子は寄り道をしてヴェネツィアを訪れた。有名な水の都を見物するためだった。 バドヴァから先は船の旅になった。 ブレタン川をゆっくり船で下った後、親子は潟へ出たところでゴンドラに乗り換えたが、強風が吹き荒れていたため、さんざんな揺れにあい、運河の両側の壮麗な宮殿も浮き沈みして見える有様だった。 ヴェネツィアの宿では、ザルツブルクの一家の家主、ハウゲヴァーから紹介された裕福な商人チェゼレッティの館で、その建物は小運河にかかるバルカローリ
(舟乗り) の橋のたもとにあった。 ゴンドラから降りた親子は足もとをふらつせた。 「パパ、陸にあがってもまだ地面が揺れているみたいだよ! こんな感じがずっと続くのかな」 チェゼレッティ家の人々は、献身的に親子の世話をしてレオポルトを感激させた。 ひとしきり共通の知人であるハウゲナウアー家の話題に花を咲かせた後、親子はすぐ近くのサン・マルコ広場に出てみた。 謝肉祭のシーズンたけなわだったので、広場では盛大な仮装舞踏会が行われていた。 「うわーっ、これはすごい!
なんて素敵な騒ぎなんだろう!」 誰もが仮装していて、広場中を騎士や道化や貴婦人や、半人半獣の牧神やムーア人や神々や、ワシの仮面や馬の仮面や、ヴェネツィア名物の白いマスケーラ
(仮面の人) が行き来していた。 モーツァルト家の人間は、仮装舞踏会が何よりも好きだった。 「パパ、早くぼくたちも仲間に入ろうよ!」 親子はすぐに仮装用の小物や衣装を貸す店に飛び込んで、お小姓と馬に扮した。 ヴォルフガングは雑踏に呑み込まれると、すぐにヴェネツィア風の挨拶をおぼえこんで、 「こんばんは、仮面の奥さま。一曲お願いいたします」 と優雅に腰を折っては、次々に相手を替えて踊り回った。 仮面舞踏会は一晩中つづき、明け方になっても終わるどころか、反対に人が増えていた。 「こんな楽しいカーニバルは、母さんもナンネルも知らないね!」 「ああ、あの二人とも連れて来てやりたかったな」 疲れた親子は広場の周辺に置かれた椅子に倒れかかり、白む空の下で、なおも踊り狂う幻想的な集団を見ていた。 「ぼくはイタリアの何もかも気に入ったね。ね、みんなでイタリアに住もうよ。そう出来たら最高じゃない!」 ヴォルフガングの他意のない言葉に、レオポルトの決意はますます強まるのだった。 およそひと月に及ぶヴェネツィア滞在
── その間親子の泊まるチェレゼッティ家の前の運河には、貴族差し回しのゴンドラが幾艘も並んで揺れており、親子は毎日それの乗って大貴族たちの邸宅を訪ねまわる華麗な日々
── の後、帰路ヴェローナに着くと、財務長官ルジャーティ以下、すでに見知ったヴェローナの人々が熱狂的に親子を待ちうけていた。 「今回は何としてでも拙宅にお泊りいただかなくてはいけません。お二人は町がお迎えする最高の賓客んおです」 イタリアでの栄光がここに始まった町ヴェローナ。その町の最高のパトロンとして親子を幸運に導いてくれたルジャティ。そに邸宅に泊まるのに何の異存があろう。 レオポルトは喜んで申し出を受け、ヴォルフガングは再びルジャーティのクラヴィアを弾いて、ヴェローナの人々を歓喜させた。 |