親子は五月八日に、四人の修道士たちと三台の二輪馬車を連ねてローマを発ち、六日後の十四日にナポリに着いた。 この道中にたくさんの道づれをもとめたのは、街道に盗賊が出没するというニュースが入っていたからだった。 五月のナポリ! 爽やかな空気と、抜けるような青空。 「ここにいるだけで、健康にいいことは医者でなくても分かる」 「パパ、イタリアの奥地に来れば来るほど、驚きの連続だね!」 到着してすぐに、以前ザルツブルクを訪れたことのあるテューディ男爵の館に招かれた親子は、地中海に張り出した白亜のテューディ邸の円形のバルコニーに立って、南国にいることの感激にひたった。 バルコニーの下には熱帯の樹木が生い茂る庭園がつづき、その先は百八十度紺碧の地中海が広がっている。 「ナポリに来たことは、絶対に忘れない!
ぼくの心はこの空と海の青さに染まりそうだ!」 感嘆の声をあげる少年に、男爵は南国の魅力を語った。 「そう、ナポリの太陽を一度浴びた者は、一生その輝きを忘れません。今は初夏ですが、燃えるような夏もまた魅力的です。ここでひと夏過ごされませんか」 レオポルトはあわてて会話を引き取った。 「真夏は一番涼しくて一番健康的な所で過ごしたいと思っているのです。猛暑は苦手でしてな」 「それは残念。しかしご滞在の間に、この辺りの名所は一つ残らずご覧にならなくてはいけません。ヴェスヴィオ火山、ポンペイやエルコラーノの遺跡、それに地下にあるたくさんの洞窟や墓などです。これらは見ておいて、決して後悔なさいませんぞ」 「そうでしょうとも。私の持っているカイスラーの旅行案内書にも、そうした名前は出ていました」 ナポリ滞在の日の多くをレオポルトは思い切って観光にあてた。テューディ男爵や、帝国大使カウニッツ伯爵が差し向けてくれる軽快な黒塗りの二輪馬車に乗って、ある日はヴェスヴィオ火山に登り、ある日はポンペイやエルコラーノの遺跡発掘現場を見て回った。
ヴェスヴィオ火山は高く噴煙をあげ、溶岩で固められた山のすそ野には、金色の花エニシダが咲き乱れていた。 山に登れば登るほど、紺碧のナポリ湾の絶景が眼下に広がり、見上げる空は青くまぶしい。 すべてが美しく、すべてが輝いているようで、ヴォルフガングは思い切り笑い出したいほどの幸福感に包まれた。 「見てパパ、ぼくの顔を。今日一日でこんなに日焼けしたよ!
ぼくはいつも日に焼きたかったんだ。家に帰るまで、日焼けがとれなければいいのに。ナンネルに見せたいよ」 夜は夜は夜で、親子は招待やオペラ観劇に忙しかった。 ナポリで仕立てた新しい夏服、あわい緑の絹にバラ色の裏がつき、金色のボタンで飾られた美しい服を着たヴォルフガングは、サンカルロ歌劇場でも王子のように扱われ、臨席していたナポリ国王や王妃から、丁重に挨拶を送られた。 それに応えながらも、国王や王妃を見慣れている親子の目は辛らつだった。 「あの王妃さまは愛想が良くてご立派だけど、国王は無作法みたい。少しでも王妃さまより大きく見せようと思って、腰掛の上に立っているんだよ。パパ、ナポリ風に教育されるとああなるんだね」 「ああ、ここの子どもたちの躾けの悪さも、国王のああいった態度の影響だろう。あの様子では、音楽が分かっているとは思えない」 親子が直感したとおり、国王の音楽的要素は低かった。したがって、貴族たちの下にも置かないもてなしぶりのわりには音楽会の数は少なく、レオポルトが予定していた収入の三分の一も入らなかった。 音楽的には実りの少ないナポリだったが、思うぞんぶんの観光の中で、ヴォルフガングの感性は南国の輝きのすべてを吸い取ったのだった。
|