〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part X-T』 〜 〜
== モ ー ツ ァ ル ト==
(著:ひ の ま ど か)

2017/05/05 (金) 

栄光と賞賛の日々 (九)

「楽しかったな、パパ。ぼく、もっとフィレンツエにいたかった」
「トーマスとはまたどこかで会える。今は予定通り、復活祭前の聖週間の儀式に間に合うようにローマに着かなくてはならない。ヴァチカンにはこの時にしか聞かれない有名な曲があって、父さんはおまえに、何としてでもそれを聞かせたいのだ」
馬車はフィレンチェの親友に心を残す少年を乗せて、ローマ街道をひた走った。
四月はじめの雨天をついてこの五日間の旅は、これまでにない不快なものだった。
夜はじめじめとした汚い旅館に泊まらされ、野菜と卵だけの粗末な食事をあてがわれて、レオポルトは苛々して不機嫌だった。
「濡れたものは早く脱ぎなさい。そのままでは風邪をひくだろう。もう子供ではないのだから、自分のことは自分で注意しなさい」
── このようなことも、息子のためと思うからこそ、我慢出来るのだ。私はこの子の異常なまでの楽才を発見した時から、この子に犠牲となって生きる覚悟をしたのだ。
それでもあまりにひどい状況に置かれると、レオポルトは自分の身分や生活に対する不満でいっぱいになるのだった。
そのようなわけで、ローマに着き、以前ザルツブルクに来たことのある神父の世話で、さっぱりとした民家に旅装を解いた時には、親子は生き返った気分になった。
ローマあてには、レオポルトは二十通もの推薦状を携えて来たが、ひとまず下見の目的で二人はサン・ピエトロ大聖堂に向かった。
円柱に囲まれた壮大なサン・ピエトロ広場には、世界中からの信者や観光客が群れていた。
その正面に建つ大天蓋を頭上に乗せたサン・ピエトロ大聖堂は、さすがに強大で荘重で見るべき価値があった。
しかし圧巻は、大聖堂の右手ヴァチカン宮殿の奥にある、シシティーナ礼拝堂だった。
その天井画は創世記の九つの場面が描かれたものであり、壁画はキリストの 「最後の審判」 の図だった。
これらはすべてミケランジェロが十年をかけて描きあげたもので、その力強さや迫力は見る者の息をのませた。
親子が無言で絵に見入っている時、礼拝堂の奥から美しい合唱が聞こえて来た。
「ヴォルフガング、これだ! 父さんがおまえに聞かせかったのは。これは百年以上も前に、このシスティーナ礼拝堂の作曲家を勤めていたアッレーグリという人が作った有名な 《ミイゼレーレ (あわれみたまえ)》 という曲で、門外不出なのだ」
「門外不出って?」
「ここからパート譜一枚といえども、持ち出してはいけないのだ。あの歌っている修道士たちも、もしこの礼拝堂から楽譜を持ち出したならば、破門されることになっている」
「そう」
ヴォルフガングは熱心に 《ミイゼレーレ》 を聞いていた。曲は無伴奏の合唱で、五声と四声の合唱が交互に歌われ、最後は九声で終わるという複雑な作品だった。
演奏が終わると、ヴォルフガングは父親に小声でたずねた。
「パパ、この曲はここで聞く以外絶対によそで聞けないんだね」
「そうだ」
「でもぼくこの楽譜を手に入れたよ」
「どこに」
「ここさ」
少年は自分の頭を指していた。
「本当か! ではすぐに宿にもどろう」
レオポルトは息子が言うことに、半信半疑だった。しかし、ヴォルフガングは宿に帰るとすぐに五線紙に向かって、暗記していた 《ミイゼレーレ》 をスラスラと書き取ってしまった。
「パパ、あしたこの楽譜を礼拝堂に持って行って確かめてみてよ。ちがっていても、ほんのわずかだと思うよ」
レオポルトはその楽譜を見て、うなった。
ヴォルフガングはたった一度聞いただけで、あの複雑な合唱曲を頭に入れてしまったのだ。イタリアに来てからの息子の進歩には、目を見張るものがある。
「ヴォルフガング、おまえには父さんでさえ驚かされてしまう」
このことはすぐにローマ中の人の耳に入り、誰もが幻の神童の登場を待ったのだった。

『モーツァルト』 著:ひのまどか ヨリ
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