〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part X-T』 〜 〜
== モ ー ツ ァ ル ト==
(著:ひ の ま ど か)

2017/04/20 (木) 

ブレンナー峠を越えて (六)

一方レオポルトも、イタリアの聴衆の反応に感心していた。
── さすがに 「音楽の祖国」 と言われるだけのことはある。ここの人たちの驚嘆は 「珍しいものを見た」 という興味本位のものではなく、ヴォルフガングの天才を正しく理解してのものだ。イタリアでなら、ヴォルフガングは神童としての年齢をこえてしまっても、暖かく迎えられるだろう。確かにこの国はドイツやフランスに比べて、音楽の上でははるかに優れている。
ヴォルフガング自身も、本当に音楽がわかる人たちに囲まれている、よいう喜びにひたっていた。楽想にふけり、嬉々きき として演奏するその姿は、ミューズの化身のように美しかった。
毎日がてんてこ舞いの忙しさの中に過ぎていった。
ヴェローナに来て早十日を数えようとしていたが、ヴォルフガングを聞きたいという熱望は日増しに高まるばかりで、これらの要望に全部応えていたのでは、旅の計画が大幅に狂ってしまう。几帳面くちょうめん なレオポルトにとって、そうした狂いは苦痛だった。
「ありがたいことに、息子は当地で大変喜ばれておりますが、次なる予定地マントヴァでも、音楽愛好家の方々が息子を待ちわびておられます」
レオポルトはこの十日の間の親子の親友となったルジャーティに相談した。
「わたしどもの考えでは、おそくとも四、五日後にはここを発ちたいと思うのですが、その間になすべき最良のことについて、ご助言いただけないでしょうか」
「よくぞこの私に相談してくれました! そうと知れば、私からもたっての願い事があるのです。それをかなえていただくためにも、ご出発の日どりは内密にしておいてください。さもないと、ご子息の体が幾つあっても足りないというほどの騒ぎになりましょう。それで私からの頼みというのは、ご子息の肖像画を描かせていただきたいということなのです。長い時間は取らせません。私の知り合いに、若いが優れた肖像画家のダッラ・ローザという男がいます。二、三回ポーズを取っていただければ、彼はすばらしい絵を描きあげることでしょう。ご子息の熱烈な賛美者として、また誠実な友人として、私はいつも手もとにその肖像画を置いて、すばらしかった日々の思い出にひたりたいのです」
「おお、それは願ってもないことです。息子はパリでもウィーンでも、またオランダでもロンドンでも描かれてきました。なぜイタリアで描かれぬことがありましょう! 後々までの記念のためにも、ぜひお願いいたします」
すぐに画家が呼ばれた。
その到着までの間に、ヴォルフガングは金の縁取りのついた赤い立派な服に着替えて、ルジャーティが自慢にしているチェレスティーニ作のクラヴィアの前に座った。
「パパ、絵描えか きさんにこの指輪もしっかり描いてくれるように頼んでね。これは、ぼくのお守りなんだから」
ヴォルフガングは宝石をちりばめた金の指輪を右手の小指にはめて、クラヴィアを弾くポーズをとった。
「あれは息子が六歳の時に、シェーンブルン宮殿で行った御前演奏に対して、マリア・テレージア女帝陛下から贈られたものでしてな、息子はどの宝物よりもあれを大切にしているのです。幼な心にも、テレージアさまのご慈愛がよほど嬉しかったのでしょう。その折には皇子さまのお召しになる大礼服も賜り、皇女マリー・アントワネットさまと、まるで姉弟きょうだい のようにたわむれたものです」
すぐにやって来て仕事を始めた画家のうしろで指輪の由来を伝えながら、レオポルトは目を細めて、見るからに賢そうなわが子をながめた。息子のこれまでのことをありのままに話すだけで自慢話のようになってしまうが、これは仕方のないことだ。息子はそれだけ特別な生活を送ってきたのだ。
ヴォルフガングは、初めのうちこそまじめにポーズを取っていたが、すぐに飽きてたわむれに鍵盤の上に指を走らせ、そのうちに陽気な笑い声をたてながら即興演奏をはじめた。
時ならぬ耳のご馳走を供されたルジャーティは、わが身ここにあらず、といった喜びで、涙を流しながら少年を見つめていた。

『モーツァルト』 著:ひのまどか ヨリ
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