翌日もヴォルフガングは父親に連れられて、朝早くから教会に行ったり、侯爵や伯爵の館を回ったり、ルジャーティ邸に戻って肖像画のポーズを取ったりと、分刻みのスケジュールをこなしていた。画のモデルが終わって、遅い昼食のときに思い出したように言った。 「そうだ、ぼくサン・トンマーゾ教会のオルガンを弾きたいと思っていたんだ!
あれはボナッティが作ったオルガンの中で一番よく出来ているって、誰かが言っていたよ。ヴェローナを発つ前にあれを弾いてみたいな」 「それじゃ、食事のあとすぐに行ってみよう。明日は商人のロカテッリさんが町の名所を案内してくださることになっているし、明後日は荷造りで忙しい。となると、今日しか時間がない」 親子の相談を聞いていたルジャティーは、飛びあがって執事を呼んだ。 「それではすぐにカルロッティ侯爵とピンデモン伯爵に知らせよう!
そうすればあの方たちが楽友協会の面々に知らせます。ごくごく内輪の音楽仲間だけには、若き天才の最後の演奏を聞く機会を与えてやりたいのです。だいじょうぶです、この食事の間のみなに連絡が行き渡ります」 ゆっくりと食事をとった三人が、夕暮れ近くに馬車でサン・トンマーゾ教会に行くと、教会の周辺はものすごい人だかりで、とうてい馬車など近づけない有様だった。 「パパ、どうしたんだろう?
ここで何があるんだろう?」 ヴォルフガングはびっくりして馬車の窓から顔を出し、黒山の人だかりを見た。 その顔を見た群衆は今度は馬車の方に殺到してきて、早くも興奮しきった声で叫んだ。 「モーツァルト!
モーツァルト!」 「早く聞かせてください、あなたの音楽を!」 「お願いです! モーツァルト!」 馬車は群集に押されて揺れた。 「たいへんだ、ヴェローナ中の人間が来てしまった。しかし、なぜ知ったんだろう?
神父さんには内緒にしておくように頼んであったのに。私は誓って内々にしか知らせなかったんですよ」 ルジャーティはおろおろして、レオポルトとヴォルフガングの顔を見比べた。 レオポルトは本能的に息子の体をかばいながら、とっさに状況を判断した。 「ここで引き返すわけにはゆきません。それにこの子だって喜んで弾くでしょう。問題は、どうやってオルガン台までたどり着くかです。ここで下りたならば、息子は押しつぶされかねません」 「よしっ、馬車を教会の中庭に入れましょう。」 ルシャーティの命令を受けた御者は、強引に人の波をかき分けて馬車を教会の中庭に乗り入れた。 そこには腕っ節の強そうな修道士たちが何人も待機していて、馬車の座席からそのままヴォルフガングを肩に担ぎ上げ、歓呼する人垣を押しのけながらオルガン台の下まで運んで行った。 「パパっ、パパっ!」 「大丈夫だ、ヴォルフガング、いつものようにやりなさい!」 父親の励ましに勇気を得た少年は、修道士の肩から降りると軽快に階段を駆け上がり、演奏台に座ると、すぐ試し弾きを始めた。 「本当だ、このオルガンはすばらしいな。ちょっと音が狂っているけど、こんあに柔らかな音色が出るものは、ほかにはありませんよ!」 ヴォルフガングは横に立っているサン・トンマーゾ教会のオルガニストに感想を述べながら、楽器の性能を飲み込んでしまうと、喜び勇んで即興演奏を始めた。 「おお!」 「ああ!」 オルガニストは小柄な少年が両手両足を使ってくり広げる、生き生きとした、多彩な音色を駆使した演奏に、ただ感嘆詞を並べちらねるだけだった。 演奏が終わると、前にも増した騒ぎになった。 少年を一目見ようとする群集がオルガン台の下に詰めかけ、押し合いへし合いしながら少年の名を呼んだ。 ヴォルフガングはニコニコしながら降りてきて、再び屈強な修道士たちに担がれると、凱旋将軍のように人々に手を振りながら馬車まで運ばれた。 熱狂した群集は最後まで馬車を取り囲み、冬だというのに汗を光らせながら、 「ブラーヴォ!、ブラーヴォ!」
を連呼した。 これがイタリアでの栄光に満ちた日々の始まりだった。 ヴェローナは町を挙げて少年モーツァルトを歓待したが、行く先にはさらに輝かしい栄誉が待っていたのだ。
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