「たいそうな山道のようですが、これでもアルプスで一番低い山なんだそうです。このブレンナー峠の道ができたからこそ、北から南への旅が可能になったのですな。勿論最初の人たちは歩いて通ったのでしょうが、さぞかし難儀なことだったでしょう」 空は暗く、灰色の雲が垂れ込めていた。 その雲も高く登るにつれて下からわき上がってくるようにも見え、馬車は完全な濃霧に包まれてしまった。 長い時がたった。 やがて濃霧の切れ間に、農家やひなびた教会が姿を見せはじめた。 「やれやれ、峠の村に着いたようです。もう安心ですよ」 突然、御者の吹く角笛が響き渡った。 ブレンナー峠の宿場に到着したのだ。 「ヴォルフガング、ここがオーストリアとイタリアとの国境
だ。ここを過ぎればあとはもうイタリアへ一直線だ」 早朝シュタイナハで替えた馬は、再びここで替えなくてはならなかった。 その間馬車の外に出てひと休みしようとした親子は、峠から見る劇的な光景に息をのんだ。 いま、馬車があえぎあえぎ上って来た北側を、オーストリアの空はどんよりと暗く、アルプスの山並みも立ちのぼる霧に灰色にかすんでいるというのに、南側のイタリアの空には雲ひとつなく、峠からの一本道が、まっすぐ大平原に吸い込まれているのが見えるのだ。 「どうしてこんなことがあるんだろう!
パパ、神さまは北と南の境目を、ここに作られたのかしら?」 「そうかも知れない。しかし、なんという空の違いだろう。こんなことは、実際にこの目で見なければ信じられない」 二人は幾度も首をめぐらして南北の空を見比べては、感激していた。 「北と南の国では、空までがこれほど違うのだ。人や音楽が異なるのも当然だろう?」 「ママやナンネルがこれを見たらどうするだろうな。きっと姉さんひっくり返って、カナリアみたいにさえずるね」 自らも一服した御者が客を呼び集め、顔ぶれを確かめてから御者台へ登った。 ひとムチ当てられた馬たちは、イザルゴ渓谷の中をつらぬく坂道を、一直線にイタリアに向かって駆け下りていった。 「ヤッホー。いざイタリアへ行かん!
太陽の国イタリアへ一目散だ!」 ヴォルフガングの歓声とともに、親子はイタリアへの第一歩をしるしたのだった。 |